2008年8月18日月曜日

北京オリンピック


オリンピック前半の競技

8月もまだまだ暑いが、朝晩の空気がさわやかになりつつあるのを感じるこの時期、僕はしばらく封印していた自転車で通勤を開始した。クリニックまでは自転車を軽快に走らせると、15分程度で到着するので程良い運動になる。朝からぶっつづけで手術をこなした後、自転車で六本木通りの坂道を汗びっしょりになりながら登って自宅に戻る。この時期オリンピックが気になり、シャワーを浴びる前についついテレビをつけてしまう。テレビをつけた途端、その競技が何であろうと、僕の目はしばし釘付けになる。特にメダル争いの真剣勝負を見ていると、僕自身も選手の気持ちに同化してしまい、手に汗を握っている。金メダルのプレッシャーがかかった試合前、どの選手も顔は真剣そのものだ。日本国民全員の期待を背負っているので、そのプレッシャーは並大抵ではないはずだ。試合が終わった瞬間、見事にある日本人選手が金メダルをつかんだ。その選手の顔は笑顔かと思いきや、必ず泣き顔を見せる。人間は 極度の緊張感から解放されたとき、反射的に泣いてそのプレッシャーを解放するように出来ているのだろう。 金メダルを得た途端どの選手も必ず涙を見せる。僕はその姿を見ると、感動で胸が震え目頭が熱くなり、彼らのことを”よくやったとか、日本人の誇り”と思う。それは金メダルを得た瞬間を見れば、誰しも感じる感動なのだ。
僕はその後、バスタブに漬かりながらその感動の余韻に浸る。そして次のように感じた。 どうして、オリンピックはこれほどまでに人々に感動を与えるのだろう?もちろん、日本人が世界の舞台に立ち、世界一になって”君が代”が流される中、日の丸が掲揚されるのを見ていると、日本人の強さや存在感を世界に示すことになるから、その価値は計り知れない。だが、僕が本当に感動するのは日本人の強さにだけではない。選手たちが4年に一度のオリンピックに目標を定め、用意周到かつ地道に努力し続た事実。そして、その努力が見事に実り、金メダルという最高の形で完結するサクセス・ストーリーに酔いしれる。この理想的な形で達成されたサクセス・ストーリーが、僕の胸を強く打つからなのだ。

”サムライ”たちの戦い

オリンピックは前半競技を終えた。前半戦では柔道、水泳やフェンシングで日本人が活躍している。だが、バレーボールやサッカー男子などの球技では残念ながら苦戦を強いられている。ここで興味深い事実に気がついた。一般的に日本人は農耕民族を祖先にしているから、集団生活に必要な和を重んじると言われる。そんな社会背景であれば、個人競技より球技などの団体競技で、頭角を現すのかと思いきや、実際の結果は柔道や水泳、フェンシングなどの個人競技で優秀な成績を残している。日本人には集団生活に必要な遺伝子だけではなく、サムライや武士道から継承された”個の戦い(一人で生き延びる)”に必要な遺伝子も備わっている。
オリンピック中継からは選手たちの語録がたびたび耳に入る。
選手たちは何を目標に頑張るのか?
その答えは、「他人のためにがんばっても、プレッシャーが強くなりすぎて駄目、結局は自分のために戦う。」その時選手は強くなる。また、「悔しさが原動力になる。悔しさがなくなったとき、戦闘能力を失い選手生命は絶たれる。」
柔道金メダルの石井選手の言葉、「自分は負けることは許されない、勝つことを最優先して戦った。」そして見事に勝った。この石井選手に対して、「オリンピックのプレッシャーは?」という質問。その答えは「コーチから、おまえが負けたら、おまえのためにオリンピックの道を譲ったすべての選手が負けることになる。だから絶対に負けてはいけない。」と言い聞かされてきたらしい。続けて「このコーチのプレッシャーに比べたら、オリンピック競技のプレッシャーは比べものにならないほど楽。」と言い切った。 これはかつてサムライたちが、負けることは命を失うことを意味したため、必勝を最優先にした”武士道”そのものなのだ。そんな”戦いに勝つ遺伝子”が我々日本人の中にも流れているのを、オリンピックの日本人の勇士を見ながら感じている。

2008年8月9日土曜日

人生に一度の出来事


結婚式

人生に一度の出来事って何だろう?クリスマスや誕生日は年に一回あるが、結婚、葬式など冠婚葬祭は生涯一度のことが多い。友人の一人が、この秋結婚式を挙げる。ビジネスを立ち上げたばかりの友人は、多忙な仕事の合間を縫って、何とか結婚式を成功させようとその準備に追われている。僕の場合もそうだったが、結婚式はどちらかと言うと、女性のための一大イベントの意味合いが強い。僕の結婚式は、大学院生時代の米国留学中に、親族と同じ研究室の友人たちのみを招いて、ささやかに行った。起業したばかりの友人の場合、すでに一年前に入籍している。彼にはまだまだ経済的に余裕はなさそうなので、「何も今さら結婚式を挙げなくても良いのでは?」と尋ねると、「妻にとって、結婚式は一大イベントなのだから、経済的に余裕が無くてもその要求を飲まざるを得ない。」との答えが返ってきた。日本女性の場合、旦那さんが滞りなく仕事ができるように妻は家庭守ると言った、いわゆる”内助の功”的役割を担うことが多い。だから、結婚式は女性にとって、これから長く続く献身的生活に一生を捧げることを誓う儀式でもある。この人生の晴れ舞台で、豪華絢爛に着飾り、主役を演じることは、女性であれば誰しもが望むであろう。だからこそ、この友人は経済的余裕が無くても、奥さんの要求に答えようとしているのだ。
このカップルの結婚式は、グアムで親族と親しい友人のみを呼んで小規模に行う。最近、近場の海外で小規模結婚式が一般的になりつつあるらしい。海外挙式は小規模なので経費節約が出来るのと、新婚旅行をそのまま継続して行えるから効率が良い。そもそも、数百人も呼んで行う大規模な結婚式は、式を挙げる本人たちのイベントというより、むしろその家族や周囲の関係者たちのイベントの意味合いが強くなる。たとえば、僕は北海道の地方病院で勤務していた頃、その病院の看護師さんの結婚式に参加したことがある。この挙式では新郎新婦の勤める会社社長さんたち、その地域に支持者を持つ地方議員たちの挨拶が次々に行われたが、その挨拶の一つ一つがあまりにうんざりしたことがある。こうなると、その結婚式は一体誰のために行っているかわからず、本末転倒となってしまう。こういった理由から、挙式を行う本人たちのためだけに行う小規模な結婚式が主流になりつつあるのだ。

それ以外の一大イベントは?

お葬式もその人にとって一生に一度の大イベントとなる。故伊丹十三監督がお葬式にまつわるさまざまな出来事をユーモラスに描いた映画を見たことがある。もし、亡くなった張本人が自分のお葬式を見たら、自分が生前どのような人間関係を持っていたのか、その人間たちは自分のことをどのように思っていたのか、などがよくわかるだろう。僕の父が他界した際、突然の他界でありながら、父の周囲を取り囲む人々支援のおかげで、盛大なお葬式を行うことが出来た。それを見たとき、父がまっとうに生きてきた人間であることを実感した。いずれにせよ、お葬式も生涯一度きりの大事なので、万人にとって決してないがしろには出来ない。
話を近々結婚式を挙げる友人に戻そう。彼は久しぶりに僕に会った途端、「どうして”目の下のくま、たるみ治療”が人気があるかわかった!」と言う。僕が「何故?」と聞くと、彼は得意げに「それは一生に一度のイベントだからだよ!」と言う。確かに”目の下のくま、たるみ治療”は、僕がこの治療を適切に行うと、まるで親知らず歯(永久歯)を抜歯するかのごとく、一生再発することはない。僕は友人に「でもどうして、一生に一度のイベントは人気があるの?」と続けて尋ねた。友人は「一生に一度の出来事って、結婚式やお葬式のように、その人にとって一大イベントなんだよ。誰も結婚式や葬式をいい加減にはやらないよ。それと同じように、一生に一度の目の治療も何よりも結果が重要なんだよ!」と言い切った。僕はこの友人の見解は鋭いと思った。僕の顧客たちにとって、この治療は結婚式と同様、その人にとって一生に一度の大イベントなのだ。僕はこの友人の見解を肝に銘じた。そして、誰しもが満足のゆく治療結果を確実に出し続けることを心に誓った。