2005年10月20日木曜日

診察日記−5


特別な顧客
僕の大切な友人の一人に香港人のウイリアム・ルイがいる。彼は僕が前のクリニックで働いていたときに患者として4年前に知り合った。彼はいろいろな意味で非常にユニークだ。香港の財閥の子息に生まれた彼はほとんど王子様と言ってよい。彼の所有する財産は莫大なので、彼の仕事は自分の持つ財産の管理が主だ。ほとんどその財産の利子だけで十分に裕福に暮らせると言っても過言ではない。もう一つの仕事は慈善事業として中国大陸で才能があっても、貧しいために芽が出ない才能ある若者の発掘を自分の財産で奨学金制度を作っている。香港はイギリスの植民地だったので、彼を含めて裕福層はみな英国に留学した経験を持っているため英語に堪能だ。彼がクリニックを訪れたときに僕が英語で対応し、治療を行ってからすっかり仲良しになった。
ウイリアムのユニークな一面は美容が大好きなことだ。彼は物心ついた頃から化粧にも興味を持ち、毎日ファンデーションを塗っている。お化粧好きの男性と言えば同性愛者のような印象があるが、彼にそのような面はなく、純粋に美しいことが大好きなのだ。美容医療にも大変興味があり、世界各国の名医たちに治療を受けている。首のしわの治療はパリの美容外科医に埋没糸で治療を受けたらしい。フェイスリフトは切らない最新の方法で、ニューヨークマンハッタンにいる人気美容外科医に治療済みだ。二重は英国とハリウッドで二回行ったが、すぐにとれてしまったらしい。3度目の二重の治療に前のクリニックにやってきたのだ。ウイリアムの目は支持組織が薄く、切開法ではうまく二重が出来にくいことがわかった。そこで僕は今回は切開法をやめて、埋没法と呼ばれる糸を埋め込む治療を行うことに決めた。この方法を用いることで結果はとても良く、ウイリアムも今回は満足したようだった。この埋没法は日本で最も一般的に用いられる二重手術なのだが、そのような治療が少ない諸外国では日本の技術ほど高くないらしい。これをきっかけにウイリアムはなんと僕を世界の名美容外科医の一人として認めてくれたのだ。それ以来、香港から彼の裕福な友人たちが次々と僕の所へ来るようになった。
今回、ウイリアムは福岡に僕を招待した。福岡は香港からも近く、空港から市内までタクシーで15分ととても便利な街だ。彼は僕に福岡で金の糸治療を受けたいと言い出したのだ。東京までは成田から2時間もかかるし、人がたくさんいて不便なので僕の銀座のクリニックまでは来たくないらしい。治療をする場所が問題だったが、知人のクリニックを一時的に借りる手はずをなんとかととのえた。僕と看護師さんの交通費やクリニックを借りる料金などの諸経費を含めると、治療費は通常の倍になるがウイリアムはそんなことはおかまいなしだ。夕方福岡入りした僕たちは食事を済ませてから、金の糸治療を行った。

2005年10月19日水曜日

僕のアンチエイジング治療ー6

低血糖発作
僕の身長は168cmだが北海道で研修医生活を行っている間の体重は57キロと痩せ気味だった。なにしろ朝は食べる習慣がないし、昼は入院患者と同じ入院食を食べていた。夜は外で外食をしたが消費カロリーのほうが摂取カロリーよりも少なかったのだ。ある日長時間の手術を終えて、その達成感の喜びのままマウンテンバイクで一気に山を駆け上った。気分が高揚していたせいもあり、空腹感は全く感じなかった。異変は下り坂で起きた。突如手足に震えがきて、胸がどきどきしてきた。救急外来でさまざまな患者を見てきた僕は自分に何が起きているのかすぐわかった。低血糖発作が起きたのだ。低血糖発作とは、車で言えばガス欠だ。人間の体は糖分を燃料に体を動かしたり、頭を使ったりしている。糖分は血液で運ばれているが、体の中の糖分の値は常に一定に保たれるように、インスリンとよばれる体内ホルモンで調節されている。インスリンは食後に膵臓から分泌されて、すぐに必要ではない糖分は肝臓に蓄えられる。このインスリンの働きが悪くなるのが糖尿病で、慢性的に血糖値が高くなるのだ。糖は高いままだと体に毒で、放っておくと失明の原因にもなる。
僕の場合、山にマウンテンバイクで駆け上がったために、血中の糖分を使い切ってしまったのだ。普通だと肝臓に蓄えられている糖分が血液に溶け出してくるのだが、僕の場合、痩せていたために肝臓にすら糖分が蓄えられていなかったのだ。低血糖発作は放っておくと危険だ。血糖値が60mg/dl以下になると意識も失う可能性があるのだ。何故なら、脳細胞は糖分しか燃料として使うことが出来ないからだ。解決法は簡単で、飴など糖分の多いものを口にすれば症状は一気に解決する。僕は下り坂の道を出来るだけ体力を使わないようにしながら、病院まで戻ってすぐに甘いものを口に入れた。症状はあっという間に解決したが、正直言って怖かった。痩せ過ぎも決して良くないと痛感した。

不足していた栄養素
このように、ダイエットは一つ間違えると危険な要素も持っている。栄養素が不足すると体の至る所に障害を来すからだ。僕の場合、カロリー不足もそうだったが、タンパク質も不足していた。体を病気から守る免疫グロブリンはタンパク質からで来ているから、タンパク質が不足すると病気にかかりやすくなる。骨もタンパク質の梁にカルシウムが張り付いているので、骨も弱くなる。僕が不足していたのはアミノ酸とマルチミネラルで、サプリを取るのであれば、これらのものを取るべきだった。正しい食事をしながらしかも太らないこと、これが本物のダイエットで食事制限するのは決して正しい方法ではなかったのだ。それにしても栄養をしっかりとって、それでいながら太らないというのは一見矛盾している。僕もこの矛盾を解き明かすのに長い時間がかかった。太らないためにはお腹がすいても意志の力で食欲を我慢するしかないと思っていたのだ。
東京に来てアンチエイジングの治療に関する知識はどんどんと増えていった。しかし、身に付いたのは知識だけではなかった。東京に出てきて半年の間に北海道での厳しい生活から解放されてあっという間に太ってしまったのだ。体重が一気に3〜4キロ増えていた。久しぶりに会った看護婦さんは精悍さを失った僕の顔を見て、がっかりしていた。確かに東京では夜間当直がなく、思う存分寝ることができたし、美味しいものをたくさん食べる機会がどんどん増えた。まるで、刑務所からでてきた囚人のような状態だったので、やむを得なかったのかもしれない。僕はこれではいけないと思ったが、気がつかない間に蓄えてしまった余分な体重を簡単に減らすことは容易ではなかった。それはダイエットにおける根本的理論を理解していなかったからだ。

2005年10月14日金曜日

僕のアンチエイジング治療ー5


北海道を離れる
寒さに弱くなったは暖かい環境に慣れた体と思った。自分の体は元々寒さには対応出来るようには作られていないのだろうと考えた。それにしても真冬に外に出ることが出来ないのは北海道で暮らしてゆく上でとても不便だった。2000年を迎え整形外科研修も一段落がついたので、今後どのような進路を選ぶべきか真剣に悩んでいる時期でもあった。これまで世界の中心ニューヨークで3年間暮らしたことがあっても、日本の中心東京で暮らしたことは一度もなかった。ある程度外科医としての腕に磨きをかけた僕は東京に出て仕事をすることを考え始めた。北海道の2月は厳冬期で寒い日だと気温はマイナス10度以下になる。最高気温もプラスに達しない日を真冬日というが、そんな日がずっと続くのだ。2月のある日、僕は就職活動のため上京した。東京は2月にもかかわらずサラリーマンが背広姿で歩けるほどの気温だった。「同じ日本なのに何故、こんなに環境が違うのだろう?冬でもこんな暖かい所で生活したいな。」と正直思った。その年の6月から東京で新しい生活を開始した。

新しい環境での生活
新しい就職先は美容医療の老舗十仁病院を選択した。僕が学んだ外科医としての能力を将来性のある美容外科医療に活かせると考えたからだ。十仁病院は外科的美容医療のみならず、内科的アンチエイジング治療にも力を入れていたので、この両方に興味のある僕にとって格好の環境だった。このクリニックでは、ホルモン補充療法など最先端のアンチエイジング治療がすでに行われていた。サプリメントも闇雲に処方するのではなく、血液検査を行った上で体に不足しているものを補うといったように合理的なものだった。5年前はアンチエイジングという言葉もそれほど世間一般に浸透しておらず、治療に関する情報はアメリカから発信されたものを手に入れていた。最近話題を集めているホルモン補充療法に関しては、当時は副作用の心配もあり、慎重に行う必要があったが大半のアンチエイジング治療が可能であった。ラスベガスで毎年行われるアメリカアンチエイジング学会にも出席して、最新の情報を手に入れるように努めた。

2005年10月13日木曜日

診察日記−4


目の下のくま、たるみ治療の具体的方法
目の下のくまを治療するには前回までに述べたように、目の下の過剰脂肪を取れば除けば良い。その取り方にはさまざまあるが、従来まで下睫毛から1、2ミリのところで皮膚を横切開して脂肪を取る方法が一般的だ。僕もかつて働いていた美容外科クリニックでは、この方法を用いて治療を行っていた。しかし、この方法には皮膚の上から切開することで大切な顔に傷をつけるのだ。熟練した美容外科医が行えば、この傷跡は数ヶ月後にほぼわからなくなる。しかし治癒するまでの数ヶ月は傷口が赤く腫れ上がり、この治癒期間は避けては通れないのだ。特に治療後一週間は腫れが明らかだし、縫合糸がついているので眼鏡かサングラスをかけなければ人前に出ることができない。さらに、この治療法には致命的な欠点がある。この治療で脂肪のみならず目の下のたるんだ皮膚をの切除量を間違えると、いわゆる‘あかんべー’の状態になる危険をはらんでいるからだ。この治療を受ける患者さんには常にこのリスクを話して納得してもらう必要があった。これまで僕はこの治療をさんざん行ったものの、いつも‘あかんべー’にだけはしないように細心の注意を払う必要があった。結局、そのような事態に陥ることはなかったが、この治療を行う際に僕にもの凄いストレスを与えた。
では、目の下のくまやたるみはどのように治療を行えばいいのだろうかといつも悩んでいたが、人目につかない所を切開する美容外科の常識に従えば良いのだと思った。日本の美容外科の歴史は少なくとも70年近くある。鼻を高くしたり、目を二重にしたり、あごを前に出したりとさまざまな方法が開発されたが、一般的になった手法はすべて人目につかない所で切開を加えるものだ。目の下のくま治療では目の裏から切開して脂肪を取り出す方法が従来から存在していた。しかし、なぜかその方法はあまり一般的でなかった。僕はクリニックの先輩から教わってこの方法を試みた。表面から切開を加える治療よりは明らかに良さそうだった。一般的でなかったのは下瞼をひっくり返しながら治療するので、操作が煩雑なのと取り除く脂肪量を調節するのが困難だったからだ。なんとかこれらの欠点を解決する方法がないか僕は悩んでいた。

米国人医師から学んだ画期的治療法
ある時、韓国美容外科学会に出席した。ほとんどの発表が韓国語で行われたため、何をやっているのかチンプンカンプンだった。外国人は日本から出席している僕と米国から招待された医師のみだった。韓国語が通じないので、この米国人医師と英語でコミュニケーションをとることができたのでほっとした。学会中にこの米国人医師によるライヴ治療が行われる予定だった。この学会の主催者である韓国人医師から、英語がわかる僕がこの治療の助手をするよう頼まれた。治療内容は米国で開発された最新のフェイスリフトと目の下のくま治療だった。僕は興味深々でこの治療の助手をした。手術の模様は数百人集まる学会場に中継で放映されていた。執刀医の米国人医師は今何を行っているか耳からつり下げられたワイヤレスマイクに話しながら手術を行った。その説明を聞きながら手術の助手をしていた僕は誰よりよく勉強することができた。目の下のくま治療に関しては、それまで僕が悩んでいた問題を見事に解決する方法がとられていた。僕は「これだったのか!」と思わず心のなかで叫んだ。
日本に帰ってきてからこの方法をビデオで何度も見て勉強した。煩雑な手技もいくつかのポイントを押さえると問題なく行えることがわかった。脂肪を取る量もレーザーを用いて治療し、脂肪に到達する方法を変えることで調節出来ることがわかった。技術を習得してからこの方法を実際に日本の患者さんに行うと、非常に良い結果が出ることがわかった。それから現在に至るまで、500例近くの症例を経験して、目の下のくまに対するこの米国式治療を完全に身につけることができた。

僕のアンチエイジング治療−4

僕が行った治療の実際
僕がアンチエイジング治療に興味を持った時期は、自分自身の体力の衰えを感じ始めた35歳の頃であることは前に述べた。その頃は北海道の地方で整形外科トレーニングに没頭しており、午後は毎日4時間近く2、3件の手術を執刀していた。ほとんど手術が趣味のような毎日だった。手術中は手術着を着て、手術帽やマスクをかぶる。手術室の温度はほぼ裸でいる患者さんが寒くないように保たれていた。さらに、無影灯というライトを常に頭の上から煌々と照らすため、手術が終わる頃には毎日汗びっしょりになっていた。手術後あまりに大量の水を飲むため、病院職員から糖尿病を疑われたほどであった。糖尿病は口渇、多飲、多尿が初発症状だからだ。念のため血糖値を測ってみたが、全く問題がなかった。手術を終えてからの日課は医局のお風呂にお湯をたっぷりいれて、しばしリラックスした。アンチエイジングの目的で新陳代謝を良くするため、必ず冷たいシャワーを浴びて、またお湯につかることを繰り返した。これはアンチエイジング治療目的で推奨される治療法の一つだ。
ここで、僕のアンチエイジング治療を振り返ってみる。
1、新陳代謝を高める。(たっぷりと水を飲む。温浴と冷水浴で汗をかく)
2、有酸素運動。(マウンテンバイク)
3、十分な睡眠。
4、好きなことをしてストレスを貯めない。(手術やスポーツなどの趣味)
5、必要なサプリメントをとる。(クロレラ、マルチビタミン)

何かが違っていた?
上記の日常生活上の心がけを見ると、アンチエイジングの治療としてかなりのレベルまで行われていた。実際、水をたっぷり飲みだしたことと、サプリを摂取してから劇的に体の状態が良くなっていた。当時の僕の生活は数年間、ほとんど病院の中で過ごしていた。北海道の冬は厳しく外の温度は氷点下にの日々が数ヶ月続いた。多くの患者が入院していた病院の中は真冬でも25度くらいと快適な温度に保たれていた。僕の体は知らないうちに寒さに弱くなっており、氷点下の日には外に一歩も出る気にならなかった。歩いて1分もかからない自分の宿舎に戻るのも苦痛だった。ほんの短い時間だったが、一瞬で体がぶるぶると震えだした。暖かい所にいれば何も問題がなかったので、単に体が暖かさに慣れてしまったのだと思った。冬は車で10分の所にスノーボードやスキーをしに行くのが楽しみだったが、寒さに弱くなってからは暖かい日だけを選んで行くようになった。秋にゴルフをしていても雨に濡れると手がかじかんで、スコアがばらつくようになった。さらに、寒い所にしばらくいるとすぐに風邪を引くようになった。これだけ体に気をつけて生活している割に、体が弱くなっていることを感じた。何か根本的な部分で体が犯されているような気がしてならなかった。それが何だったのか気がつくまでに、その後数年の歳月を無駄にした。

2005年10月12日水曜日

診察日記−3

意外に多い美容に関する目の周りの悩み
目の周りの脂肪組織は何故存在するのか?
僕のクリニックで積極的に治療しているものの一つに目の下の過剰脂肪除去がある。目の下のくまやたるみの主な原因である脂肪を取り除くことで、くまやたるみ、しわなどの悩みから解放される治療だ。目の周りに関する女性の美意識はとても高く、これらの悩みを改善するためのアイクリーム等のものに費やす支出は相当だ。最近ではいわゆる‘目ぐま’を解消するサプリや飲み物まで発売されている。誰しもが最初から僕のクリニックで行うような外科的治療を望んではいない。出来れば化粧品やエステでおこなうスキンケアによって解決したいと考える。しかし、かなりの努力をしてみたもののあまり効果がでないためあきらめてしまう人が少なくない。
これらのスキンケア治療で効果が出ないのは仕方がない。目の周りのくま、たるみの大方の原因が皮膚の奥深くに埋もれる目の周りの脂肪が原因だからだ。この脂肪組織は相当深い所に存在している。目の下の脂肪が多い人だと表面から触ってみると、クッションのような弾力性でふわふわしているのがわかる。人間に備わった五つの感覚器官の中で、目から得る情報は最も重要だ。人間が関知する全情報の8割が目から得られる情報なのだ。太古の昔からこの最重要情報器官である目が守られることが獲物を捕ったり、敵から逃げて生き延びられるかどうかの決め手だった。人間が狩猟民族だった頃、獲物を追う間に頻繁にケガをしていたことは容易に想像出来る。目の周りの脂肪は目を衝撃から守る重要なクッションとなっていた。現代ではよほどのことがない限り目の周りをケガすることはない。顔面外傷の原因といえば交通事故が代表的だ。シートベルトをしないで、エアバッグの装備されていない車に乗るのであれば、目の周りの脂肪を取ることはお勧めできない。しかし、それ以外の場合であればよほどのことがない限り、顔をケガすることはないので目の周りの脂肪は必要ではないことになる。
もう一つの脂肪の重要な役割は脂肪の保温効果だ。大昔、我々の祖先が大陸に住んでいた頃、寒さから身を守ることが生命維持に取って重要だった。モンゴル人が今でも目の上下に厚い脂肪が存在するのは目を寒さから守る必要があるからだ。我々日本人にもモンゴル系の遺伝子が多く存在するので、目の下に脂肪のある人が多い。だが現代社会では、もはや目を寒さから守る必要はなく目の周りの脂肪の役割はない。

目の周りの悩みからの解放
このように、衝撃や寒さから目を守るために存在しているのだが、美容的にはやっかいものなのだ。この脂肪の中に目が埋もれていると目が小さく見えるし、年齢とともにたるみとなって、より老化を感じさせる要因となる。脂肪がないと、いくつになっても目の下のたるみがないし、目が大きく見えるのだ。目の周りの脂肪除去治療を終えた多くの患者さんたちが、治療直後にっこりと微笑み、まるで長い間の呪縛から解放されたように「あーすっきりした!」と言ってくれる。この一言が僕にとってこの上ない喜びとなる。患者さんたちは自分の治療を終えると、他人の目の下のくまやたるみが急に気になるらしい。彼女たちは電車で向かい合った人たちの顔を見て、多くの人たちの目の下に過剰脂肪があることを理解してくれるようになる。
このようにいわゆる美容整形というより、アンチエイジングのための美容治療を当クリニックでは積極的に取り入れている。僕も5年ほど前より自分の目の下のくま、たるみが気になりだしていた。その悩みは年々強くなり、毎日鏡を見るたびに堪え難いものになった。つい先日、意を決して自分自身も患者となったので、次回はその経験を述べる。