2007年4月26日木曜日

運命的な助言


クリニックを訪れた香港・セレブ
ある日一人の香港人男性が僕がかつて勤務していた十仁病院にふと立ち寄った。美容外科の老舗、十仁病院の名前は香港でも知れ渡っていた。名前はウイリアム、彼の美意識は並大抵でなく、大切な自分の顔の相談とあって英語でのカウンセリングを求めていた。その日たまたま新橋の十仁病院で勤務だった僕が彼の担当となった。彼の身だしなみ、物腰、あか抜けた雰囲気を見て、“香港の俳優かな?”と思った。カウンセリングの内容は二重の相談なのだが、以前彼が香港や米国で行った二重治療は何度行ってもすぐ元に戻ってしまうと訴える。やや奥二重気味のウイリアムは「この二重幅をもう少し広くして、長く維持出来るでしょうか?」と僕に尋ねた。彼は日本で開発された糸を用いて行う優れた治療、二重埋没法を知らないらしい。僕は「いい治療方法があります。」と答えた。美容医療に積極的な彼はこの方法を聞いた後、すぐに治療を受けたいと言い出した。治療を終えると彼は結果にも大変満足した。

香港・セレブとは何だろうか?
ウイリアムは香港を代表する資産家の家族に生まれた40代半ばの男性で、いわゆる香港・セレブの一人である。彼は僕の行った二重治療の話を自分たちの仲間の香港富裕層に紹介した。それ以来、香港セレブたちが時折僕の治療を受けに来るようになった。つい最近まで英国植民地だった香港、社会構造も英国のそれに近い。現代日本と異なり、香港には支配する側と支配される労働者と言った社会的階級が存在する。香港に足を運ぶと、限られた土地に高層ビルが真っ先に目に入る。人口密度は東京以上で家賃は並外れて高い。庶民が支払う家賃や借りたお金の金利は不動産所有者、銀行や証券などの金融関係者たちに一方的に流れる。しかも累進課税制度がなく、どんなにお金を稼いでも税金は一定なのでお金もちはさらにお金持ちになる。お金持ちたちはその資金力を投資に廻すので、お金持ちはたくさんいたほうが結局国益に結びつくと言った、究極の資本主義が香港には存在する。このような社会的背景から生まれる富裕層が香港・セレブとなる。日本・セレブは一般的に言うと芸能人を意味するが、香港・セレブは芸能人たちと一線を画する。香港・セレブはあくまで代々資産を築き上げてきた家族に生まれた人たちなのだ。香港経済の支配階級であり富裕層であるこのセレブたちは、彼らの中だけ交流して生活する。つまり、香港・セレブは戦前の日本に存在した財閥や貴族たちに近い階級だが、彼らは香港の中国返還後も依然存在し続けている。

開業への決心
ある日、ウイリアムの紹介で香港・セレブ界のエラと言う名前の女性がが美容治療のために僕のもとを訪れた。治療を終えた彼女は突然、「あなたはこれからどうするつもり?」と僕に尋ねてきた。僕は彼女の唐突な質問に驚きながら「えっ、何の事ですか?」と聞き返した。エラは「あなたの人生は今が最も充実していなければなりません。外科医として本当にいい仕事ができるのはせいぜい10年くらいでしょう。漫然と過ごしていたら時間がもったいないじゃない?」と続けた。
僕は痛いところをつかれたと思った。何故なら、その頃の僕は全力を出し切って仕事をしているとは言いがたく、勤務医としてこのままでの状態でいいものか真剣に悩んでいた。東京に出て来て4年の月日が経過し、年齢も30代後半となった。このままでも経済的には困らない。けれど勤務医でいる限り、自分のやりたいことは思う存分出来ない。仕事に対して不完全燃焼気味の僕は心のどこかで“自分の仕事が世間に認められたらどんなにすばらしいだろう。”と思っていた。彼女は帰り際に一言、「向こう3年間であなたの名前が美容外科医として知られるよう、最大限の努力しなさい。私はそれを見守っています。」と言い切った。
その言葉に力強さと説得力があったせいだろうか、その日以来、彼女の言葉が頭から離れなくなった。彼女の言ったことを実現するには何をすればよいのだろうか?僕は毎日それを考えながら時を過ごすようになった。ある日、“それは独立して自分のクリニックを開くこと。これしかない!”と確信した。
それ以来、僕の生活は勤務医の仕事と開業準備のため突如忙しくなった。先立つものはお金、開業には莫大な投資が必要となる。お金を借りるためには社会的信用が必要だが、過去3年間の納税証明書などでそれを証明しなければならない。まさか大金を借りるとは予想だにしていなかったので、そういった重要書類はどこかに紛失していた。従来、整理整頓の苦手な僕にとって、必要書類を揃えることから開始した開業準備はこの上ない試練だった。「もう無理だよ、こんなこと!」と何度もあきらめそうになった。しかし、“自分の最大の弱点、つまり整理整頓を出来るようになることが開業への成功の鍵である。”と悟り、出来る限りの努力をした。その甲斐あって2年前の春、自分のクリニックを開くことに成功した。
昨春、時間を見つけて香港を訪れた。真っ先にウイリアム、そして僕に運命的助言を与えてくれたエラに僕が開業に漕ぎ着けたこと、そしてクリニックが順調に滑り出したことを報告をした。二人は代わる代わる僕を抱擁しながら「おめでとう、よくやったね!」とほめてくれた。今やこの二人は僕にとって兄や姉以上の存在であり、彼らとの運命的なつながりを強く感じずにいられない。

2007年4月22日日曜日

善意への恩返し


キム先生との出会い
ある年の春、僕は横浜で開かれた日中韓合同国際美容外科学会で発表した。発表の内容は“鼻の形に応じたプチ整形手法について”であった。無事発表を終えてほっとしていると、一人の韓国人医師が「久保先生初めまして。先ほどの発表ですが、あの鼻形の分類はどのような作られたのですか?」と僕に尋ねた。僕は「あれは自分で作ったのではなく、十仁病院初代院長が作ったものです。」と答えた。その韓国人医師は「もし、よろしければそのコピーを頂けませんか?」と続けたので、僕は「はい。メールで転送しますからメールアドレスを教えてください。」と言った。韓国人美容外科医、キム先生との交流はこのようにして始まった。キム先生はこれまで多くの学会発表を行ってきた韓国を代表する美容外科医の一人。僕は韓国で盛んな美容医療が実際にどのようなものか知りたくて、それ以後何度も彼と連絡を取り合った。ある日キム先生は僕に「12月にソウルで学会を開きます。是非、久保先生に発表していただきたいのですが。」と言った。僕は「喜んで。」と答え、そのとき僕の韓国行きが決まった。

真冬のソウル
ソウル・インチョン国際空港に到着して外に出ると吐く息が真っ白、12月の韓国は体の芯まで冷え込む寒さだ。南北の緊張が続くせいか、空港は肩に小銃をかけた軍人がにらみをきかしている。冬の夕暮れ、ソウル市街はきれいな夕日に染まっていた。タクシーが街中心を流れるハンガン川に近づくと、土曜日の夕刻とあって車の量が一気に増えだした。ソウルの渋滞はあきらかに東京よりひどい。ようやくソウル・ヒルトンホテルに到着すると、待ち合わせをしていたキム先生が「ようこそ、ソウルへ!」と僕を元気よく出迎えた。僕の発表は翌日なので、その夜キム先生と郊外にプルコギを食べに出かけた。ホテルに戻って朝までぐっすり眠ると、早朝7時に突然電話のベルが鳴り響いた。眠たい目をこすって受話器に出ると、「久保先生、おはようございます!」と元気のよい声。なんとキム先生がもうホテルロビーにに迎えに着ている。朝寝坊の僕は面食らったが、キム先生は「もう、出発しますからすぐに降りてきてください。」と言う。学会は9時半に始まるのだが、その前に朝食を食べるらしい。車でしばらく走ると、日本で言うところの小さな商店に車が止まった。店先にはキムチが樽漬けになって売っている。朝食はこの商店の軒先でキムチ鍋が用意されていたのだ。“ぐつぐつ煮込んだ真っ赤なキムチ鍋を朝から食べるなんて!”キム先生が精力的なのはこのような食習慣のせいなだろうか。僕たち一行は汗をかきながらキムチ鍋を食べた後、学会会場に向かった。

チャンス到来
会場にはすでに300名を超す韓国人医師たちが集まっていた。僕の発表は“目の周りの最新治療”で、日本からただ一人招待されていた。こんなに多くの韓国人医師たちの前で発表するのは初めての経験のせいか、発表が近づいてくると胸の鼓動が高鳴った。僕の発表の直前に、もう一人海外から招待された米国人医師が発表を始めた。内容は“最新フェイスリフト”について、僕は米国で行われている最先端の美容医療に思わず食い入った。韓国人医師たちの発表は韓国語で行われるのでその内容は全く分からない。隣国なのに言葉の壁は意外に大きいと感じる。僕は英語で発表したが、過去に行った米国での発表よりこの発表の方が緊張した。何故なら、僕の発表内容を韓国人医師たちがどこまで理解しているのか気が気で無かったから。
発表を終えると昼食の時間、ほっとしながら皆と一緒に昼食会場へ足を運ぶとなんと朝食に続き、昼食も真っ赤な色をしている。やはり韓国、ほとんど全ての料理にキムチ味が含まれている。僕の前に発表した米国人医師と一緒に昼食を食べながら、お互いの国の医療事情について会話した。僕が興味を持っている“目の下のくま、たるみの治療”について彼に尋ねてみた。彼は「実は明日ソウル市内の病院で“目の下のくま、たるみ”に対するライブ・サージャリーを行います。是非入らしてください。」と言った。ライブ・サージャリーとは最新の手術治療を行い、それをビデオ撮影しながら学会会場に同時放映することを意味する。この米国人医師は「あなたは英語が話せるので、もし良かったら明日の手術の助手をしていただけませんか?」と僕に申し出た。僕は「私で良かったら喜んでお手伝いさせていただきます!」と即座に答えた。

ライブ・サージェリー
これは僕にとってまたとないチャンスとなった。手術の助手は目前で執刀医の手技を見学出来るので、最も良い技術習得の機会となる。ソウル市内の美容クリニックでその手術は行われた。手術は執刀医の米国人医師、助手をする僕、看護師一人、通訳者とカメラマンが同席して行われた。手術の模様はこのクリニックから車で45分ほどの距離にある学会会場に同時中継される。そこでは300人余りの韓国人医師たちが巨大スクリーンに見入っている。手術内容は“目の裏から侵入する目の下のたるみ治療”、学会会場からは手術中に韓国語で執刀医に質問が次々に飛び緊迫感漂う。幸運な事に執刀医は米国人、質問に対し彼は英語で答えるので僕はそのすべてを理解し、“これは理にかなった優れた手術”と感動した。
従来までの目の下の手術は皮膚を切開する方法が一般的だった。しかしこの方法では傷跡などの危険性が伴う。医師は治療に生じる危険性を治療を受ける患者さんに説明する義務がある。患者さんの中には目の下の切開治療に関する危険性を説明した途端、治療を拒絶する方々も少なくない。僕はこの手術に伴う危険性を回避できないものか常々頭を悩ましていたが、当時の日本にその答えはなかった。この米国人医師の行う方法はこれらの危険性を見事に回避する画期的なものであった。“この治療こそ、僕が探し求めていたもの!”僕は直感した。
今から約5年近く前、ソウルで得たこの貴重な経験を契機に僕はこの方法を日本人向けに改良する事に全力を尽くしてきた。その甲斐あって今では安全で良好な結果を出す確固たる手法を習得した。医学に対する絶え間ない情熱を持ち続けた各国の医師たちの善意によって今の自分がある。僕はそう確信するとともに、一人でも多くの人の悩みの解決に努めようと思う。それが僕に与えられた善意への恩返しに他ならない。

2007年4月19日木曜日

ニセコ


4月の北海道
土曜の夜7時、6件目の手術がようやく終わった。その日の午後香港の医師、Ho先生から「もうニセコに着きました。君が到着するのを待っています。」と電話が入っていた。僕は仕事を終えた足で日曜、月曜の二日間、北海道ニセコへ春スキーを滑りに向かった。Ho先生は大の運動好きで、今年の2月、ユタ州スノーバードで一緒にスキーをしてきたばかりだ。南北に長い日本、4月上旬でも北海道ではまだスキーが出来る。僕たちは今年最後のスキーを北海道で滑ることにした。クリニックからタクシーとモノレールを乗り継ぐと、約30分程度で羽田空港まで到着する。札幌行き最終便は午後9時発だったが、7時半にクリニックを出ると8時に羽田空港に到着した。土曜日のクリニックは息つく暇もない。治療とその経過、そしてカウンセリングにメール返信と瞬く間に時間が過ぎる。飛行機に乗るまでのほんの一時、何もせずにいられることが幸せに感じる。
夜の11時千歳空港に到着すると、空港はすでに閑散としていた。この旅はこれからが本番、僕はここからレンタカーを借りてニセコへ向かった。千歳空港からニセコまで約100キロ、峠を一つ越えるので、通常だと2時間半はかかる。車はスバルの四駆、山道を走るにはうってつけだった。夜中の山道は真っ暗だが、少しでも早く着くようにとアクセルを踏み込んだ。時間はすでに真夜中を過ぎ、峠近くでは雪がちらつ始めている。辺りは漆黒の闇、時折イタチやキツネが道路脇に顔を出す。気がつくと路面は真っ白であたりは吹雪模様となった。フロントガラスに雪がこびりつき始め、ワイパーを最速にしても追いつかない。4月中旬と言えども北海道の山はまだ真冬の真っ直中で、峠のドライブは急斜面ときついカーブのせいでスピードを出せない。必死にハンドルを握り、峠を下りると時刻は午前一時を回っていた。「こんな過酷な思いをして、何故ニセコまで?」と思いつつも、久々の北海道に胸が躍った。北海道を離れて早くも6年の月日が経過している。今振り返ると北海道はのんびりしていて居心地の良い場所だった。逆に東京は競争の激しい場所、立ち止まるわけにはいかない。そんかことを考えなが午前2時にニセコ東山プリンスホテルにたどり着いた。

ニセコを目指した理由
ある日の新聞に“北海道ニセコ地方の地価が急上昇”との記事があった。ニセコは自然に恵まれた北海道有数のリゾートで、関東の軽井沢と言ったところだろうか。夏はテニス、ゴルフ、川下り冬は世界有数のパウダー・スノーでスキー、スノーボードと一年中楽しめる。さらに我々日本人の大好きな温泉とリゾートとして申し分ない。どうして急にこのニセコの地価が上がったのか?今から15年前、あるオーストラリア人がニセコでの川下りをビジネス化した。これが思わぬ大人気となり多くの観光客が集まるようになった。さらに南半球でオーストラリアが真夏の時期、ニセコは真冬となる。避暑を兼ねてスキーやスノボードを目的に多くのオーストラリア人が来日し、長期滞在するようになった。またこのところの暖冬の影響で、世界のスキー場は慢性的な雪不足に悩んでいる。オーストラリアのみならず、香港や韓国、ヨーロッパからもスキー客が流れ込み、これらの客を受け入れるためのホテルの建築ラッシュが続いている。これが地価上昇の理由であった。スキー場で出会ったオーストラリア人スキーヤーは「ニセコのパウダースノーは最高さ!これだけの雪質はここ以外にあり得ないよ。」と声高々に訴えた。

土地バブルになったニセコ
ニセコ東山プリンスホテルは、スキー場ゴンドラと直結したスキーヤーのためのリゾートホテル。ニセコの土地バブルはなんとこのホテルにまで影響を及ぼし、創業15年の歴史に幕を閉じようとしていた。理由は簡単、日本は急速な少子高齢化社会を迎え、スキー人口も激減している。ホテル経営も赤字となったところに外国資本投入で地価が上がり、プリンス側は高値でこのホテルを売り抜けたのだ。買い手はアメリカ資本のシティグループだが、ここを外国人向けの高級リゾートに変えようとしている。
深夜2時、やっとの思い出ホテルにたどり着き、東京から宅急便で送ったスキーを受け取った。僕は「こんな時間でも温泉の大浴場に入れますか?」と従業員に尋ねると、従業員は「はい、大丈夫です。」と答えた。ニセコの山々を見渡す露天風呂で疲れを癒しながら、10年前スキーのためにちょくちょく利用していたことを想い出した。ニセコのような日本有数のリゾートが外国人に溢れ、外国の資本で買収されつつある。僕がこの事態を憂えているとHo先生に伝えると、彼は「日本人は優しくて内気だから、外国人が入ってきても許してしまうでしょうか。」と答えた。確かに北海道人は人の良すぎるところがある。この想い出深い露天風呂も外国人向けスパに変わってしまう日もそう遠くはないだろうと思うと残念でならなかった。