2007年7月23日月曜日

美容外科の選択(脳外科実習-3)


再発作の可能性
旭川医科大学部附属病院は旭川の西にある丘陵地帯に位置していた。目の前には美瑛、富良野に伸びる田園地帯があり、その先には壮大な大雪山系がそびえ立つ。脳外科病棟のある11階からはこの大自然の風景を一望に見渡せた。9月の旭川はすっかり秋めいていた。秋風の冷たさを肌に感じながら、半年後に卒業、医師国家試験がすぐにやってくることを実感せずにいられなかった。
実習の終わる夕方5時頃、陽が落ちるのが早い旭川の空はすでに黄金色に染まっていた。それぞれの患者さんを担当する実習仲間たちもこの時間、みな医局に戻ってきた。友人たちは僕に向かって「お前が担当のあの可愛い患者さん、調子どうなの?」と冗談半分に聞いた。僕は「難しい症例だから、どうしていいかさっぱりわからない。」と答えると、友人はすかさず「まあ、遅刻してきたお前が悪いんだからしょうがないよ。」と言った。
当時僕は24歳の医学生、患者さんが15歳の美少女であることを意識し過ぎ、挨拶をするのが精一杯。担当医の診察を真似してみたものの、ぎこちなかった。だが、僕が毎日顔を出していると、少女も少しずつ心を開き始め、笑顔を見せるようになった。大学病院に入院する数週間前、突如起こった脳内出血発作で彼女は意識不明に陥った。幸運なことに意識はすぐに回復し、この発作による後遺症はなく、彼女は一応回復に向かっていた。
娘の年齢にしてはやや年配に見える母親は、僕が病室に顔を出すと「毎日ご苦労様です。」と微笑んだ。僕は「今回の発作がとりあえず落ち着いて良かったですね。」と答えた。少女の母親は、担当医から今後再発作を起こす可能性があること、手術不可能であることを告知されていた。しかしこの母親は、一度発作を起こした以外、いつもと変わらない娘を見て、症状が悪化する可能性があることは信じたくなかったであろう。母親は「突然のことで本当に驚きました。この子は私が高齢で出産したせいか、苦労してここまで育てました。なんとか良くなってくれるといいのですが。」と語った。

治療法の選択肢
僕自身もこの少女を何とか助ける方法を調べに毎日図書館に通った。その中に脳血管内にカテーテルと呼ばれる細い管を通して、破裂しそうな脳動静脈奇形を薬液で固めるという治療があった。当時、東京の最先端病院ではその治療が可能だったが、まだ試験段階であった。この最先端医療は保険適応とならないため、高額の自費が必要となった。一般家庭に生まれた少女が高額な費用を払って、その治療を受けることは現実的に不可能だった。つまり、この少女の場合、これ以上破裂が起きないよう安静にさせる以外なかった。
僕はこの最先端医療についてレポートをまとめて実習を終了した。僕の実習担当医は、「君は実習を遅刻して来たわりに、よく勉強をしました。」と僕の発表を評価した。しかし、彼女の病を治すことが出来ない現実に僕は打ちのめされ、それどころではなかった。少女は僕の実習担当が終了して間もなく、医学部附属病院から市中病院へ再転院となった。

転院後の少女
脳外科実習が終わっても、僕はこの少女がどうなったか気になっていた。少女が転院してから数週間後、僕は転院先の病院に電話をして、母親に彼女の様子を尋ねた。少女は変わりなく元気にしてると言う。僕はそれを聞いてほっとし、しばらくしてから少女の様子を見に行った。大学病院よりもずっと賑やかな病室で、彼女は以前と変わらず静かにベットに腰掛けていた。少女は僕をみてとても喜び、「たくさんの医学実習生が担当しましたが、わざわざ見舞いに来てくれたのは先生だけです!」と初めて感情を現にした。僕は照れながら、「近くに用があったので、顔を出してみました。元気そうで安心しました。」と答えた。そばにいた母親も涙を流しながら僕のお見舞いを喜んだ。僕は「このまま良くなると良いですね。」と少女に伝えると、少女は「早く学校に戻りたいんです。」と答えた。“元気そうで良かった。もうこれ以上、少女に何も起こらないでほしい。”僕はそう祈りながら病室を離れた。
少女との最後の面会からすぐに僕の医学生生活は窮地に追い込まれた。すでに半年後に迫っていた医師国家試験の準備をほとんどしていなかったので、模擬医師国家試験の結果は不合格確実と判定されてしまったのだ。僕は内心“このままではまずい。”と焦り、猛勉強を開始した。それからしばらくしてからだった。少女の母親から“娘が再発作を起こした。”との連絡が入った。

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