2008年8月18日月曜日

北京オリンピック


オリンピック前半の競技

8月もまだまだ暑いが、朝晩の空気がさわやかになりつつあるのを感じるこの時期、僕はしばらく封印していた自転車で通勤を開始した。クリニックまでは自転車を軽快に走らせると、15分程度で到着するので程良い運動になる。朝からぶっつづけで手術をこなした後、自転車で六本木通りの坂道を汗びっしょりになりながら登って自宅に戻る。この時期オリンピックが気になり、シャワーを浴びる前についついテレビをつけてしまう。テレビをつけた途端、その競技が何であろうと、僕の目はしばし釘付けになる。特にメダル争いの真剣勝負を見ていると、僕自身も選手の気持ちに同化してしまい、手に汗を握っている。金メダルのプレッシャーがかかった試合前、どの選手も顔は真剣そのものだ。日本国民全員の期待を背負っているので、そのプレッシャーは並大抵ではないはずだ。試合が終わった瞬間、見事にある日本人選手が金メダルをつかんだ。その選手の顔は笑顔かと思いきや、必ず泣き顔を見せる。人間は 極度の緊張感から解放されたとき、反射的に泣いてそのプレッシャーを解放するように出来ているのだろう。 金メダルを得た途端どの選手も必ず涙を見せる。僕はその姿を見ると、感動で胸が震え目頭が熱くなり、彼らのことを”よくやったとか、日本人の誇り”と思う。それは金メダルを得た瞬間を見れば、誰しも感じる感動なのだ。
僕はその後、バスタブに漬かりながらその感動の余韻に浸る。そして次のように感じた。 どうして、オリンピックはこれほどまでに人々に感動を与えるのだろう?もちろん、日本人が世界の舞台に立ち、世界一になって”君が代”が流される中、日の丸が掲揚されるのを見ていると、日本人の強さや存在感を世界に示すことになるから、その価値は計り知れない。だが、僕が本当に感動するのは日本人の強さにだけではない。選手たちが4年に一度のオリンピックに目標を定め、用意周到かつ地道に努力し続た事実。そして、その努力が見事に実り、金メダルという最高の形で完結するサクセス・ストーリーに酔いしれる。この理想的な形で達成されたサクセス・ストーリーが、僕の胸を強く打つからなのだ。

”サムライ”たちの戦い

オリンピックは前半競技を終えた。前半戦では柔道、水泳やフェンシングで日本人が活躍している。だが、バレーボールやサッカー男子などの球技では残念ながら苦戦を強いられている。ここで興味深い事実に気がついた。一般的に日本人は農耕民族を祖先にしているから、集団生活に必要な和を重んじると言われる。そんな社会背景であれば、個人競技より球技などの団体競技で、頭角を現すのかと思いきや、実際の結果は柔道や水泳、フェンシングなどの個人競技で優秀な成績を残している。日本人には集団生活に必要な遺伝子だけではなく、サムライや武士道から継承された”個の戦い(一人で生き延びる)”に必要な遺伝子も備わっている。
オリンピック中継からは選手たちの語録がたびたび耳に入る。
選手たちは何を目標に頑張るのか?
その答えは、「他人のためにがんばっても、プレッシャーが強くなりすぎて駄目、結局は自分のために戦う。」その時選手は強くなる。また、「悔しさが原動力になる。悔しさがなくなったとき、戦闘能力を失い選手生命は絶たれる。」
柔道金メダルの石井選手の言葉、「自分は負けることは許されない、勝つことを最優先して戦った。」そして見事に勝った。この石井選手に対して、「オリンピックのプレッシャーは?」という質問。その答えは「コーチから、おまえが負けたら、おまえのためにオリンピックの道を譲ったすべての選手が負けることになる。だから絶対に負けてはいけない。」と言い聞かされてきたらしい。続けて「このコーチのプレッシャーに比べたら、オリンピック競技のプレッシャーは比べものにならないほど楽。」と言い切った。 これはかつてサムライたちが、負けることは命を失うことを意味したため、必勝を最優先にした”武士道”そのものなのだ。そんな”戦いに勝つ遺伝子”が我々日本人の中にも流れているのを、オリンピックの日本人の勇士を見ながら感じている。

2008年8月9日土曜日

人生に一度の出来事


結婚式

人生に一度の出来事って何だろう?クリスマスや誕生日は年に一回あるが、結婚、葬式など冠婚葬祭は生涯一度のことが多い。友人の一人が、この秋結婚式を挙げる。ビジネスを立ち上げたばかりの友人は、多忙な仕事の合間を縫って、何とか結婚式を成功させようとその準備に追われている。僕の場合もそうだったが、結婚式はどちらかと言うと、女性のための一大イベントの意味合いが強い。僕の結婚式は、大学院生時代の米国留学中に、親族と同じ研究室の友人たちのみを招いて、ささやかに行った。起業したばかりの友人の場合、すでに一年前に入籍している。彼にはまだまだ経済的に余裕はなさそうなので、「何も今さら結婚式を挙げなくても良いのでは?」と尋ねると、「妻にとって、結婚式は一大イベントなのだから、経済的に余裕が無くてもその要求を飲まざるを得ない。」との答えが返ってきた。日本女性の場合、旦那さんが滞りなく仕事ができるように妻は家庭守ると言った、いわゆる”内助の功”的役割を担うことが多い。だから、結婚式は女性にとって、これから長く続く献身的生活に一生を捧げることを誓う儀式でもある。この人生の晴れ舞台で、豪華絢爛に着飾り、主役を演じることは、女性であれば誰しもが望むであろう。だからこそ、この友人は経済的余裕が無くても、奥さんの要求に答えようとしているのだ。
このカップルの結婚式は、グアムで親族と親しい友人のみを呼んで小規模に行う。最近、近場の海外で小規模結婚式が一般的になりつつあるらしい。海外挙式は小規模なので経費節約が出来るのと、新婚旅行をそのまま継続して行えるから効率が良い。そもそも、数百人も呼んで行う大規模な結婚式は、式を挙げる本人たちのイベントというより、むしろその家族や周囲の関係者たちのイベントの意味合いが強くなる。たとえば、僕は北海道の地方病院で勤務していた頃、その病院の看護師さんの結婚式に参加したことがある。この挙式では新郎新婦の勤める会社社長さんたち、その地域に支持者を持つ地方議員たちの挨拶が次々に行われたが、その挨拶の一つ一つがあまりにうんざりしたことがある。こうなると、その結婚式は一体誰のために行っているかわからず、本末転倒となってしまう。こういった理由から、挙式を行う本人たちのためだけに行う小規模な結婚式が主流になりつつあるのだ。

それ以外の一大イベントは?

お葬式もその人にとって一生に一度の大イベントとなる。故伊丹十三監督がお葬式にまつわるさまざまな出来事をユーモラスに描いた映画を見たことがある。もし、亡くなった張本人が自分のお葬式を見たら、自分が生前どのような人間関係を持っていたのか、その人間たちは自分のことをどのように思っていたのか、などがよくわかるだろう。僕の父が他界した際、突然の他界でありながら、父の周囲を取り囲む人々支援のおかげで、盛大なお葬式を行うことが出来た。それを見たとき、父がまっとうに生きてきた人間であることを実感した。いずれにせよ、お葬式も生涯一度きりの大事なので、万人にとって決してないがしろには出来ない。
話を近々結婚式を挙げる友人に戻そう。彼は久しぶりに僕に会った途端、「どうして”目の下のくま、たるみ治療”が人気があるかわかった!」と言う。僕が「何故?」と聞くと、彼は得意げに「それは一生に一度のイベントだからだよ!」と言う。確かに”目の下のくま、たるみ治療”は、僕がこの治療を適切に行うと、まるで親知らず歯(永久歯)を抜歯するかのごとく、一生再発することはない。僕は友人に「でもどうして、一生に一度のイベントは人気があるの?」と続けて尋ねた。友人は「一生に一度の出来事って、結婚式やお葬式のように、その人にとって一大イベントなんだよ。誰も結婚式や葬式をいい加減にはやらないよ。それと同じように、一生に一度の目の治療も何よりも結果が重要なんだよ!」と言い切った。僕はこの友人の見解は鋭いと思った。僕の顧客たちにとって、この治療は結婚式と同様、その人にとって一生に一度の大イベントなのだ。僕はこの友人の見解を肝に銘じた。そして、誰しもが満足のゆく治療結果を確実に出し続けることを心に誓った。

2008年7月23日水曜日

休日の過ごし方


休日の午後

友人は僕が休日どのように過ごしているかよく尋ねる。 僕の答えは決まって、”午前中はジムに行くか、家でごろごろしている。出かけたとしても都内の近場に午後からちょっとだけ。”と答える。実際、僕は休日には何一つ生産的なことはしない。集中力を必要とする美容外科という仕事上、休日に体力消耗するようなことは避けたいのがその理由なのだ。 実は休日の都内は意外に過ごしやすい。 買い物でも、ゴルフの打ちっ放しに行くにも、あまり待たされることがない。 東京を離れて何か行動しようとすれば、都内を脱出するのに交通渋滞や人混みなど、体力を消耗しかねない。僕にとって毎日行う外科手術が充実する時間なので、休日に充実感を求める必要がない。
休日の午後、しばしば訪れるのが明治神宮外苑周辺だ。ここは東京都内とは思えないほど広い空間と緑が溢れている。休日ともなると、国立競技場や神宮球場ではスポーツイベントが行われ、賑やかな雰囲気に包まれ、人々にとって大都市東京のオアシスの一つに挙げられる。ここに僕が良く通うゴルフ練習場がある。なかなか上達しないゴルフについて、友人と”ああでもない、こうでもない。”と言いながら練習するのも良い気分転換になる。

手頃なイタリアン

ゴルフ練習で汗をかいた後は、翌日の仕事に備えて早めの夕食をする。明治神宮外苑から恵比寿、広尾近辺では休日でも比較的手頃なレストランが、軒を揃えて営業している。明治通り界隈はグルメ通りといっても過言ではない。オープンカフェ店が多く、夕日が沈む前、イタリアンレストランのテラス前でアンチパスタ(前菜)に舌鼓を打ちながら、ワイングラスを傾ける人たちを見かける。友人と僕は、明治通り沿いの行きつけのイタリアンレストランに向かった。ストレス・フリーにしたい休日の夕食は、やはり馴染みのお店に越したことはない。新しいお店に挑戦して、雰囲気が良くなかったり、美味しくなかったりなど、ネガティブな思いをあえてしたくない。このお店の場合、どの程度お腹が空いているかシェフに伝えるだけで、その日の新鮮な食材からみつくろって、手頃な料理を用意してくれる。イサキや真鯛のカルパッチオ、イワシのフリット、トマトのカプレーゼ、菜の花パスタ、そしてメイン料理は豚のバルサミコソースソテー焼き。イタリア料理の魅力は手頃な料金で、気張らずにバラエティな食材がコースとして出てくること。料理に合わせてワインを選び、会話をしながらゆっくりと食事を楽しんで、一人あたりの料金は5000円程度と、極めて良心的である。良いイタリアンレストランと出会うと、気軽に行きたくなるのはこういった理由に他ならない。気の合う友人とストレス・フリーの時間を過ごす。これが僕にとって有効な休日の過ごし方であり、明日への活力につながるのだ。

2008年7月7日月曜日

広島北部の山村地帯


忘れつつある日本人本来の暮らし

先日、広島に住む英国人の友人から「日本の古民家を手に入れたので見に来ないか?」と誘われた。”英国人の友人が何故日本の古い家屋に興味があるのだろう?”僕はそのことに興味を抱いた。そこで、折りたたみ式自転車を新幹線に持ち込んで広島まで出かけることにした。ぼーっとしながら車窓を眺めていると、東京ー広島間の4時間はあっという間にに過ぎた。東京で仕事をしていると、常に何かに追い立てられるような生活が続く。このように何もしないで過ごせる時間が、逆にとても貴重だ。広島駅で友人と会い、そこからバスで1時間、広島県と島根県境の高速道路パーキングで下車した。梅雨のまっただ中のこの時期、雨がしとしとと降っているが、緑豊かな田園風景がとても美しい。高速パーキングで折りたたみ式自転車を組み立て、友人と一緒に、45分ほどの山道を自転車をこいだ。この景色は僕が幼少時代、北海道の田舎で見慣れていたものだったせいか、その想い出が30年以上の時間を飛び越えて、僕の脳にフラッシュバックした。田んぼには無数のオタマジャクシが泳ぎ、雨がに塗れたアスファルトの上には蛙が跳ね、ミミズがはってる。都会は時代とともに急速に変化するが、こういった田舎はあまり変わっていないと思った。
友人は週一度この家を訪れるが、その間ここには人の気配がないため、蛇や熊が出ることもあるらしい。僕が訪れた時はマムシを含め、3匹の蛇を見かけた。この家は今から10年以上前、前住人が他界されてからずっと空き家になっていた。少なくとも100年以上前に立てられたらしく、縁側には障子、囲炉裏に藁葺き屋根など、日本古来の文化が残されていた。こういった日本文化は、第二次世界大戦、その後の高度経済発展の中で、いつの間にか忘れ去られつつある。だが、この英国人の友人は、普通の日本人以上に伝統的な日本文化に興味があり、この家を手に入れた。古民家に到着して気になったのがライフラインが配備されているかどうかだった。とりあえず電気は通っていた。だがそれ以外、つまり水道、ガス等は配備されていない。水は家の裏にある小川から水を引き込み、ガスの代わりに薪を焚く囲炉裏を使うしかない。水は飲料水として安全なのだろうか。友人曰く、この小川の水は、飲料水としての水質検査に合格しているとのこと。何しろ、小川が流れるこの家の裏の森林地帯には過去100年間、居住した形跡がなく、水が汚染されていないのだ。

久しぶりの魚釣り

広島をバスで出発する直前、友人は「この先、買い物する場所はないので、必要なものは今買いなさい。」と言う。僕は駅に隣接したマーケットでスナックやビールを買った。友人は僕に「それで十分なのか?」と念を押す。都会の生活に慣れた僕は”せめてコンビニくらいあるだろうから、そこで何か買えばいい。”と軽く考えた。だが、この場所には友人が言った通り、買い物をする場所はどこにもなかった。僕が友人に「これだけの食べ物じゃ、お腹がすぐにすいてしまうよ。」と訴えると、友人はあきれた顔をして「俺の言うことを信用しないからだよ。」とつぶやいた。友人は続けて、「でも、ここにいるとストレスがないせいか、それほどお腹がすかないから大丈夫。もし、どうしてもお腹が空いたら、魚釣りに行こう。」と言った。”魚釣り?”ここ何十年も魚釣りをしたことがなかった。子供の頃の魚釣りの楽しい想い出した途端、僕の胸はわくわくした。
小川では”岩魚”が釣れるという。餌のミミズを捕まえて、自転車で渓流に向かった。夕方近くのこの時間帯、隙があれば血を吸おうとする蚊を振りよけながら、こっちも今晩のおかずを手に入れるため、冷たい水の中に足をつけて魚釣りをした。日が落ちるまでにようやく何匹かの岩魚を釣り上げた。雨は一日中ずっと降っている。カッパを着ていても長時間雨に打たれると、水が肌まで染み寒さで体が震えた。僕は生活防水処置がされた腕時計をつけ、携帯時計をポケットに入れていたが、降りしきる雨の勢いに負けたのか、その両方が故障した。そもそも携帯用の電波は届いていないし、時間を正確に知る必要もなかったので、この場所にいる限り、携帯も時計役に立たなかった。
家に着くと、友人は囲炉裏の薪に火をおこした。体は一日中雨に打たれて芯まで冷え切っていた。僕たちは濡れた衣類を急いで脱ぎ、乾いた服に着替え、火おきた囲炉裏の前に横たわった。囲炉裏の火を見ながら次第に体が温まってゆくこの感覚、とても気持ち良かった。湿気が多いせいか、薪も不完全燃焼のため白い煙がもくもくと出て、部屋中が燻製のような独特な臭いに覆われた。さっきまで家のそこらじゅうにいた蛾やハエ、蚊などが、いつの間にかこの煙を嫌っていなくなった。これも昔からの生活の知恵なのかと感心した。早速、釣ってきた岩魚を串にさして焼いた。これが今晩の主食、僕はありがたいと思って頭からがぶりとかじったが、この上なく美味しかった。時計が壊れたので、時間はわからないが、知る必要もなかった。お腹が満たされると、疲労のせいかすぐに眠たくなった。僕たちは、寝袋にくるまり、囲炉裏の火を見ながらビールを飲んでいると、想い出話に花が咲いた。気がつくと僕たちはいつの間にか深い眠りに落ちていた。

本当の幸せ

広島県北部の山村地帯で友人と数日過ごした後、僕は東京に戻った。品川駅のホームには無数の人が黙々と歩いている。たった数日の小旅行だったのに、かなり久しぶりに東京に戻ってきたように思えた。それはこの貴重な体験を通して、僕の魂がリフレッシュされたから、そのように感じたのかもしれない。僕はある程度お金を用意して旅行に出だが、実際に使用したのは交通費と多少の食料費のみだった。山村地帯ではお金を使う場所がないのだから、いくらお金を持っていても全く意味がない。しかし、普段東京でお金を使って何かをする以上に僕はここでの体験に幸せを感じた。逆に、東京のような大都会ではお金がなければ快適に暮らしてゆけない。そのせいか、都会で暮らす人は、お金があれば何でも手に入るとか、お金さえあれば幸せになれると勘違いしやすい。だが、実際にはお金が人にもたらすのは物質的なものであることが多い。人はお金によってもたらされる物質的な物に囲まれても、幸せを感じる生き物ではない。人は物質的な物よりも、むしろ、精神的(スピリチュアル)に充実して、幸せになれる。
たとえば、大都会の人が欲しいものが何かというアンケートの答えは”水、魚、そして緑”だった。今回僕の経験した暮らしには、なんとその3つが見事に揃っている。だから、僕は東京での生活以上に幸せを感じたのかもしれない。合理主義を重んじる米国人ですら夢や憧れにしているのが、”別荘を持ち、薪をくべる暖炉(日本の囲炉裏)の前でたたずむシンプルな生活”なのだ。人々にとって本当の幸せとは、”自然と一体化したシンプルな生活とそこから得られる心の平安”であることを僕はこの体験を通して確信した。

2008年6月22日日曜日

ゴルフー2


完全に間違っていた僕のスイングイメージ

プロゴルファーのレッスンで、ゴルフクラブでボールに当てにゆくイメージでは、逆に正確にボールには当たらないことを教えられた。正確なボールを打つには、ゴルフクラブの特性と軌道を考慮に入れたスイングが重要なのだ。だが、新しい振り方を習得しようとしても、10年以上悪い振り方がこびりついた脳と体は簡単に反応してない。いわゆる”頭ではわかっていても、体が反応しない。”という状態に陥った。脳と体の連携がフリーズし、ついにボールが前に飛ばなくなった。僕は焦り、引きつった表情をしていたにちがいない。レッスンプロは笑いながら「今がスタートです。数ヶ月以内には何とかなるでしょうから、慌てないでやりましょう。」と言う。
せっかちな僕は”本当に大丈夫なのか?”と不安を感じずにいられない。1時間の練習で20球程度しかボールを打てず、その中でまともに前に飛んだボールは一球もなかった。我流で練習していたときは、1時間で少なくとも100球は打っていた。だが、これまでの練習はすべてが無駄だった。いや、むしろ悪い習慣を身につけるため、つまりゴルフが下手になるために打ち続けていたのだ!この事実を知ることは屈辱以外、何物でもなかった。なぜなら、まだゴルフをやったことのない子供のほうが、むしろ僕より早く上手くなるであろうから。しかし、この先生が言ったように、自分の誤りを素直に認めることが進歩への第一歩。少なくとも良い方向に修正するスタート地点に立てたのだから、ありがたいと思って気持ちを落ち着けた。
ゴルフはコンスタントに良いショットが打てるようになっても、必ずしもスコアはアップしない。次の課題はいわゆるショートプレイ、つまりグリーン周りのボールを正確にアプローチして、パターを決めなければいけない。このようにゴルフはとても奥が深く、なかなかスコアが伸びないので、多くのゴルファーがこのスポーツにハマってゆく。僕は自分の今後のゴルフ上達への課程を考えると、気の遠くなる思いがした。このレッスンプロ曰く、”我流でも一生懸命練習すれば80台のスコアを出せる。しかし、誤ったスイングでゴルフを続けても、それ以上スコアが伸びなくなり、歳を重ねるに従い、逆にスコアが悪くなる。そのあたりでゴルフをやめてしまう人が多い。”のだそう。まさに、僕はゴルフが上達する以前に、その下り坂をまっしぐらに降り始めていたのだ!

ゴルフレッスンから学んでいること

レッスンプロから正しいスイングとはどのようなものか、とりあえず頭で理解することがは出来た。僕は出来る限り先生の言われた通りの正しいスイングをビデオ撮影してみた。だが、そのゴルフスイングには、悪い癖がものの見事に残っていた。この事実は主観的イメージが客観的なものとは必ずしも一致しないことを証明している。このイメージの食い違いがゴルフ上達を妨げる主たる原因なのだ。つまり、ゴルフのような繊細なスポーツは主観的なイメージを、客観的に正しいものに一致させることが上達への秘訣だが、それはタイガーウッズのような超一流プロにですら不可能らしい。したがって、タイガーウッズですら、コーチをつけて常にゴルフスイングをチェックしているのだ。
僕はゴルフを甘く見すぎたために、いつまでも上達できないでいた。この事実はスポーツが得意な僕のプライドを見事に打ち砕いた。そして、何事に対しても謙虚な姿勢がいかに大切であるかということを、僕はゴルフレッスンを通じて思い知らされている。僕はこの事実をもう少しプラスの方向に考えようと思う。脳の老化が始まっている僕のような40歳代の中高年層にとって、長年の習慣を捨て新しいこと習得することはとても難しい。ややマゾっぽい感じもするが、鈍くなってきた脳に鞭打って新しいことを覚えさせるプロセス、時間のかかる作業ではあるが、この体験が実は新鮮で楽しいとすら思える。ゴルフレッスンを通じて現在僕が学んでいることは、今後の人生を有意義に過ごすために必要なのだ。その要点をまとめると次のようになる。

1)人生には自分が正しいと思っていることが、実は間違っていることも少なくない。
2)そういった事実をプライドを捨てて謙虚に認める。
3)誤りを修正するためには客観的なアドバイスにも耳を傾ける。
4)正しい方向に進み始めたら努力を怠らないで継続する。

”ゴルフなんて簡単だよ。”そんな甘い考えを持ち続けていたせいで、僕のゴルフの進歩は完全に絶たれていた。この過ちを修正する努力は、脳と体の連携を活性化させるという意味で、僕自身の老化防止(アンチエイジング)にとっても大きな意味を持つ。僕のように40歳を過ぎた人の脳や体は着々と老化が進んでいる。だが我々は、歳を重ねてもこの紛れもない現実すら、謙虚に認めることが出来ない。何故なら、人はいつまでも若くいたいと、心のどこかで願い続ける生き物だから。

2008年6月13日金曜日

ゴルフ-1



大学院進学

大学院は基礎医学研究を行い、卒業時には医学博士業を取得することが目的となる。だが、その頃の僕には、いわゆる”モラトリアム的甘え”(知的、肉体的には一人前に発達していながら、意図的に社会的な義務を果たさず、躊躇している生き方)があった。将来何をしたらよいか定まらない中、僕はとりあえず大学院に入学した。大学院ではこれといって、義務的な仕事はなかった。自分の所属した研究室の研究テーマを少しでも進めることが大学院生の仕事だが、それはあくまで本人の自主性に任される。
大学院には僕のように医学部を卒業してそのまま入学する医師は少なく、一度臨床医として社会で数年働いた先輩たちが、医学博士号取得のために入学するのが一般的だった。こういった先輩たちは、北海道の地方で診療をするかたわら、ゴルフを覚えて戻ってくることが多かった。 夜8時過ぎ、大学院での研究生活が終わる頃、その中の先輩医師が「ゴルフの打ちっ放しでも行ってみないか?」と誘われたのが、僕がゴルフを始めたきっかけだった。 今から15年以上前のことになる。

甘く見ていたゴルフ

若くて元気いっぱいだったその頃の僕は、”止まったボールを歩きながら打つゴルフ。これもスポーツなのだろうか?”それが僕が持っていたゴルフへのイメージだった。サッカーのように汗を流すのがスポーツだと思っていたので、”ゴルフはおじさんのスポーツ”と軽く見ていた。僕は物覚えがついた頃から、野球、サッカー、テニスなどの球技を見よう見まねでこなしてきたという自信があった。ゴルフもきっとすぐにうまくなるだろうと高を括っていた。
数回打ちっ放しに行くと、案の定すぐにボールに当たるようになった。そのとき、僕は”そら見たことか、やっぱりゴルフなんて簡単だよ。”と思った。その後すぐに先輩に連れられてゴルフコースに行くようになった。当時のスコアは120程度だったが、すぐに100を切れるようになるだろうと思っていた。大学院生活2年目に入っても研究目標が定まらない僕は、教授からニューヨークの共同研究室に留学することを命じられた。留学期間中、広大なアメリカは比較的安くゴルフが出来るので、毎週末よくゴルフに出かけた。一般的日本人のゴルフ観に”100を切れば一人前。”そんな風潮がある。定期的にゴルフコースに出かけると、スコアはそれなりに進歩した。ゴルフを始めて一年以内に、僕のスコアは100を切るレベルに達した。僕はゴルフが上手くなったつもりでいた。
それから長い年月が経過した。それなりにゴルフは継続していたが、ある時期は研修医としての仕事が忙しく、数年間全くゴルフクラブを握らないこともあった。肝心の僕のゴルフスコアはどこまでレベルアップしたか?結局、この15年間のベストスコアは90。常に90と100の間をうろつくような状態で、ほとんど上達していなかった。スポーツ好きな僕は、クリニックを開業してもサッカーやスキーなどのアクティヴなスポーツをやり続けてきた。そして、数年前無理がたたって、アキレス腱断裂という大怪我を経験し、体に気をつけてスポーツをするようになった。

全く上達しないゴルフ

そんなつらい体験の中からゴルフは体に優しく、生涯スポーツとして取り組んでゆけると思い、去年あたりから積極的に行うようになった。だが、依然スコアは全く伸びなかった。ベストスコアの90で回っても、納得のゆくゴルフのイメージとかけ離れていた。どうしてうまくならないのだろう?去年の暮れあたりから、僕は数ヶ月間、週2回、夜仕事が終わってから打ちっ放しに出かけた。自分なりにあれこれ考えながら、相変わらず我流で練習した。すると、スコアはベストスコアの90まで達したが、それ以下にはどうしても進歩しない。ゴルフコースに出ても僕は必死だった。少しでも効率的に上達するため、一打一打、いろいろ考えたり、悪い点を修正する努力をしたり、無心になって集中するなど、様々なことを行ってみた。しかし、何をしてもうまくいかなかった。
僕はゴルフに嫌気がさし始めた。「どうしてゴルフだけはいくら練習しても上手くならないのだろう?ばかばかしいからもうやめようか?」ミスショットを繰り返すたびに、僕は怒りとストレスで一杯になっていた。僕は自分の欠点を知りたいと思った。自分の欠点は意外に自分ではわかりにくい。一緒にゴルフに行く友人から「慌てて早く振りすぎ。」と指摘された。だが、ゴルフクラブは早く振らないと、ボールは遠くに飛ばない。リラックスして振らなければ当たらないのはわかっている。だが、コースに出て緊張すれば、どんなにゆっくり振ろうと思ってもそれが出来ないのがゴルフというスポーツなのだ。
昨年末は仕事が忙しく、しばらくゴルフに行けなかった。年の暮れが押し迫った年末のある日、僕は久しぶりに友人たちとのゴルフコンペに出かけた。ハーフを廻りきらないうちに僕の顔は顔面蒼白になった。スコアはすでに軽く50をオーバーしていた。この調子だと、最終的には120にも達する調子の悪さだった。正直、コースの途中でゴルフはもうやめたいと思った。「15年前に始めた時よりも成長しているどころか、下手になっている!」これはスポーツには自信のあった僕のプライドを著しく傷つけた。
僕はしばらくパニックに陥ったが、冷静になったときに自分自身に2つの選択肢を与えた。すなわち、ゴルフは完全に断念するか、もしくはこれまでとは異なった方法、つまりゴルフレッスンを受けてゼロからスタートするかのどちらかである。このスポーツが生涯スポーツで、老後の楽しみとしての価値を考慮すると、今投げ出すにはもったいないと思った。また、我流で15年間行ってきたこのスポーツ、一体何が上達を妨げる原因なのか、その理由を僕はこのスポーツに謙虚になることで知るべきだと感じた。幸運にも友人の紹介で、若くて気さくなプロゴルファーと知り合うことが出来た。僕は迷わずゴルフを一から習うことにした。僕のゴルフが正しいゴルフ理論からから完全に逸脱していることを、一度目のレッスンで知ることになり、僕は唖然とした。

2008年5月24日土曜日

最近行った美容室


アンケート用紙

先日友人の紹介で、ある美容室に行った。この美容室はヘッド・スパ、いわゆる頭部マッサージのようなエステ的要素を取り入れており、最近こういった美容室が増えてきているらしい。ちょっとした街であれば、美容室は“石を投げると当たる”くらい数が多い。他店舗と何か違う要素を打ち出して集客しなければ、競争率が激しく経営するのが大変であると簡単に想像できる。この美容室に入ると、最初にアンケート用紙らしきものが配られた。そこには”どのような髪型が希望するか?”といった具体的な質問から、”施術中に美容師さんと話しをしたいか、それとも話しかけられたくないか?などの意外な質問もあった。僕は、医師としての職業上、対人関係には日頃から気を遣っている。休日の美容室くらい、人に気を遣わないで、”ぼーっ”としていたいと思ったので、”あまり話しかけられたくない”の欄に記しをつけた。
担当の美容師が決まり、カットをすることになった。“どのようにカットしますか?”と聞かれても口で説明するのは意外に難しい。お気に入りのヘアー・スタイル写真を美容師に見せて、同じような髪型にしてもらうのが手っ取り早いが、頭の形や髪質によって、まったくそのヘアー・スタイルのようになるとは限らない。最終的には美容師さんのセンスがことのほか重要となる。カットが始まると、僕は棚の上の雑誌を読み出した。彼女は黙々と髪を切っていたが、多分、僕が”話しかけられたくない”の欄に印をつけたので、何も話しかけてこないのだろう。僕はこちらから美容師さんに「僕の髪、だいぶんすっきりしてきましたね。」と話しかけると、彼女はにこにこしながら「随分、伸びてましたから。」と答えた。さらに彼女は「お客さんは“話しかけられたくない”とアンケートに書いてあったので、話しかけずにいました。」と続けた。僕はやはりと思ったが、「自分は気が変わりやすいのです。やっぱり話しがしたくなりました。」と答えると、彼女はくすくす笑い始めた。

美容師さんの気遣い

カットも中盤を迎えたところで、僕は「今回のヘアースタイルはとてもいい感じでいいです。でも、整髪料をつけてボリュームを出すと、僕は頭が大きいから似合わないでしょう。」と言うと、彼女は「お客さんの頭は決して大きくありません。」と言った。だが、僕は医学生時代の生理学実習で脳波を図る際、頭の周径を計ったことがある。僕の頭の周径は60cm近くあり、明らかにLサイズだった。だが、実際に頭が大きいことを知っていても、この美容師さんから“そんなに頭が大きくない。”と言われて、思いの外嬉しかった。
カットが終了すると、ヘッド・スパが始まった。ヘッド・スパは、頭部マッサージが中心で、とても気持ちが良かった。僕は彼女に、「美容師さんの仕事は遅くまで働くから大変でしょう?以前、夜遅くまで表参道で飲んだ帰りに、灯りがこうこうとついている店があるから、何をしているのだろうと思って、覗いてみました。するとそこは美容室で、みんな一生懸命働いていました。」と言った。彼女は「それは、若い美容師さんたちが、自分たちの髪の毛をカットして練習しているのです。」と答えた。そんな何気ない話をしているうちに、僕はいつの間にか、眠りに落ちた。
「お客さん、そろそろ終わる時間です。」と起こされ、最後にドライヤーで整髪されることになった。彼女が僕の頭にドライヤーをかけながら、「お客さんはどのようなお酒を飲みますか?」と聞くので、「どうして僕がお酒を飲むと思ったのですか?僕はお酒臭いですか?」と冗談交じりに聞き返してみた。すると、美容師さんは笑いながら、「お客さんは、先ほど表参道に飲みに行かれると言ってましたから。」この美容師さんが、僕との何気ない会話をきちんと覚えていることに僕は驚かされた。僕はこの美容師さんが真摯に仕事をする態度に好感を持てたので、もう少し彼女について尋ねてみた。彼女は最近まで違う仕事をしていたが、30歳になって手に職をと思い、美容師になったとのこと。全ての行程が終了し、僕のヘアー・スタイルはさわやかな感じとなり、すっかり満足した。僕は“今度もこの美容師さんにお願いしたい。”と素直に思った。

サービス・ビジネスで大切ないくつかのポイント

今回の美容室での経験を通し、僕はサービス・ビジネスにおけるいくつかの重要なポイントを再確認することが出来た。そのポイントは次のようになる。

1. 技術力(僕はこのヘアー・スタイルが気に入った。)
2. 優しさ(大きい僕の頭を小さいと言ってくれた。)
3. 思いやり(何気ない僕の会話をきちんと聞いていた。)
4. 親切と丁寧(マッサージも手抜きをせず、念入りに行ってくれた。)

美容師さんや我々医師たちなど、サービに徹する仕事をする業界では顧客に“また通いたくなる”と思ってくれるリピーターをいかに獲得できるかが、成功の鍵を握る。繰り返しになるが、我々提供する側にしっかりとした技術力があるのは当然として、サービスを行う側の人柄や誠意も同様に大切なのだ。今回僕を担当してくれた美容師さんは、最近獲得した美容師の仕事を成功させるため、一生懸命努力しているのだろう。そんな彼女の誠意ある仕事ぶりを観察して、僕自身サービスビジネスに従事する者として、見習う点も少なくなかった。

2008年5月9日金曜日

格安ツアーで訪れた韓国、釜山


風光明媚な街、釜山

先日、連休を利用して韓国、釜山を訪れた。釜山は、日本から距離的に最も近い外国都市で、福岡出発の高速船では約3時間の距離にある。人口380万人、世界有数の港とともに発展した韓国第二の都市である。春真っ盛りの釜山、真っ青な空が広ろがった快晴の日、心地よい春風に色とりどりの草花が一面に咲き誇っていた。釜山に面した東シナ海はエメラルド・グリーンに輝き、釜山が豊富な自然に恵まれた街であることを実感した。
東京から釜山に行くには、距離的にずっと遠いソウルに行くより大変である。東京-ソウル間は、羽田(国内)空港から毎日数便あるが、釜山へはあまり便数がなく、成田(国際)空港まで行かねばならない。発着便数と成田までの移動時間を考えると、釜山のほうが距離的に近くても、ソウルに行くより時間的に遠くなる。ソウルに比べると、ややのんびりした感じのある釜山だが、港町ならではの情緒があるし、釜山港に水揚げされる魚介類がとても美味しいので、一度は訪れてみる価値がある。今回僕は、格安ツアーに参加してこの街を訪れた。アジアを格安ツアーで参加すると、面白い経験するので、その話をここで紹介しよう。

グループツアーの実態

アジアの国々に旅行する際、飛行機やホテルをばらばらに手配すると、パッケージで丸ごと頼むより必ず割高となる。だが、パッケージツアーにはそれなりの制約がある。前回、学会でソウルを訪れたとき、昼過ぎの飛行便で午後3時頃、ソウル・インチョン空港についたものの、その後、他の団体客が出そろうまで一時間近く空港で待つはめになった。空港からは、同じツアーに申し込んだ10人ほどのお客さんたちと、バスでそれぞれのホテルに向かったが、その途中、否応なしに免税店に連れて行かれる。ここでまた一時間ほど時間をロスする。夕方のソウルの渋滞は想像を絶するほどでひどく、ソウル市街に到達するのにその後また一時間かかった。ソウル市街では、お客さんをそれぞれのホテルに降ろしてゆくが、運悪く我々のホテルに到着するのは最後になった。結局ホテルに到着したのは夜の8時、半日以上を移動に費やしたことになる。旅行も“安いのには理由がある。”ので、こういった格安ツアーに参加すると、かなりの時間を無駄にすることになる。
今回の釜山旅行は同じ轍は踏まないよう、ある手を講じて時間を無駄にしないよう考えた。格安ツアーの場合、空港で我々を待つガイドさんが我々を待ち受けている。ガイドさんの役割は、ツアー参加客をそれぞれのホテルに案内すること。だが、実際には空港からホテルまで送る間、韓国で可能なショッピングや観光、マッサージ、エステ等を紹介し、その予約をしきりに取ろうとする。多分、予約を取ると、ガイドさんに仲介料が落ちるしくみになっていて、ガイドさんの大切な収入源になっているのだろう。そのしくみを前回の旅行で悟った僕は、格安で、しかも時間を無駄にしない旅行をしたいと思った。

”ガイドなし”の格安ツアー?

空港に着くと案の定、ガイドさんがにこにこしながら僕たちの到着を待っていた。僕はガイドさんに「約束の時間が迫っていて急いでいます。申し訳ありませんが、ここで結構です。」と伝えた。ガイドさんはかなり慌てた様子だったが、彼女にある程度のチップを渡すと、僕の要求を承諾した。彼女は僕に「では、知り合いのタクシーを呼んでありますから、そのタクシーでホテルに向かって下さい。」と言った。全てを断るのは申し訳ないと思い、せめてそのタクシーで釜山市街に向かうことにした。タクシーの運転手は、僕たちにつたない日本語で、一生懸命話しかけてきた。普段、ガイドさんと運転手は二人ペアで、日本人たちに釜山観光のガイドを行っているのだろう。彼は自分のタクシーで釜山観光を行うよう、必死で僕たちを説得し始めた。僕は運転手に「わかりました。もし、必要であれば電話します。」と言った後、チップを多めに渡してタクシーを降りた。
このように、格安旅行に行っても、ガイドさんの勧誘をうまく断る術を知らなければ、その策にはまって、旅行の自由を奪われかねない。もしこういったことが煩わしければ、個人旅行を選択すべきであろうが、パッケージ旅行に比べると、かなり高くつく。少しでも安くあげ、しかも時間を節約した旅行にしたいのであれば、少々荒っぽいが上記のような方法をとる以外ない。もちろん、これまでアジアで経済的に優位だった日本国民として、アジアに旅行した際、節約ばかり考えていてはいけない。だが、いつまでも日本人旅行客が、いわゆる”かも”にされている時代でもないであろう。

2008年5月1日木曜日

ハワイー7(お別れパーティー)


別れの儀式

時間は瞬く間に流れ、帰国の日が近づいた。バンガローの仲間は、友人たちが去るとき、お別れパーティーを開くのが慣例となっていた。いよいよ僕のお別れパーティーの番が来ることになった。パーティーは、夜の海辺でのバーベキューを催した。海に囲まれたハワイは、昼夜を通して気温の変化が少なく、夜になっても生暖かい。日中は日差しが強すぎて、マリン・スポーツでもしない限り、外にいるのはきついが、夜のハワイこそ、外出するのにうってつけの気候となる。満点の星空の下で、たき火を焚きながらバーベキューを食べる。それは、太古から人類が行ってきた営みであり、万人共通の喜びなのだ。
ビールを飲んで酔っぱらったノルゥエー人の友人が、突如立ち上がり、バイキング(北欧の海洋民族)の歌を歌い出した。古くから別れの際に歌われてきたらしいが、ノルゥエー語で歌われた歌詞の内容はさっぱりわからない。僕は“いよいよ帰るのか。”と感傷的な気持ちで、その歌を聴いた。歌が終わった直後、仲間たちの3人が、突如僕を担ぎ上げて、そのまま夜の海に投げ込んだ。これも彼ら流のお別れの儀式らしいが、服ごとずぶ濡れになっても寒くないのは、この地が楽園である証だった。

国際社会で生きるには

ハワイに来た当初は不安に苛まれ、日本に引き揚げようとさえ思ったこの旅行も中断しようと思ったハワイほんの少し辛抱するだけで、夢のように楽しい日々に変わった。日本に帰れば、医師として新たな一歩を踏み出さなければならない。先輩医師たちの過酷な日々を見ていたせいか、帰国すれば仕事に追われるハードな毎日が待っているのはわかっていた。だが、当時のハワイでの生活は、そんな将来への不安をかき消すほど、充実した日々だった。海外に一歩踏み出すまで、常に抱き続けていた西洋人へのコンプレックスは、この体験によってすっかり払拭された。結局、人間は肌の色や体格は関係なく、各々が世界で唯一持ち得る個性の魅力が問われのだ。
ハワイ滞在中、僕は団体行動する日本人に時折出合った。僕は常に仲間の外国人たちと一緒にいたから、日本人たちの行動を客観的にみることが出来た。その際、彼らが日本人の仲間内で、ただにやにやしているのはとても奇妙に見えた。日本人は言葉がなくても気持ちが通じ合う、いわゆる”あうんの呼吸”は日本人の美徳である。だが、海外に出た時に、自分の思ったことを表現しないで沈黙していると、”何を考えているか分からない変わった人”と勘違いされることがある。
ハワイ滞在最終日、僕は1人通い慣れた浜にしばらくたたずんだ。この海は僕が1ヶ月半前にここへやってきた時と同様に、強い日差しと風、そして波が絶え間なく打ち寄せている。この大自然の前では間近に迫った僕の将来への不安も取るに足らない。だが、医師として働き始めたら、もうこの地に足を降ろせないと思うと悲しかった。海辺に落ちていた、波に打たれて丸みを帯びた木片にふと目が止まった。何の特徴もないただの木片だったが、僕は青春最後の情熱を注げたこの浜辺の想い出に持ち帰った。

2008年4月17日木曜日

ハワイー6(クリフ・ジャンプ)


野生児、マーク

サーフィン生活は一ヶ月を過ぎた。僕はもはやこのバンガローの古株の1人になっていた。もっと古株だった南アフリカ出身のマークは、トライアスロン・ワールドカップ出場のトレーニングを行っていた。年齢は24歳、僕と同じくらいだったが、度胸と体力に秀でたこの白人の若者は、バンガローの番長格だった。マークはトレーニングの一環としてビーチバレーを行っていた。球技が得意な僕は、ビーチバレーのセッターとして、マークにスパイクの打ちやすいトスを上げると、彼にすっかり気に入られた。マークと僕のチームは、他のバンガローの連中と試合をしても、負けなしだった。“スポーツで頭角を示すと、周りから認められる。”このルールは世界共通なのだろう。僕はマークの相棒として、バンガローでは一目置かれる存在になっていた。
サーフィンの出来ない波の小さい日、僕たちはハイキングやダイビングに出かけた。波の小さいある日、マークが「クリフ・ジャンプ(崖から海へのダイビング)に行こう。」と提案した。マウイ島の南側、ラハイナ、カアナパリは、風光明媚な観光地帯だが、ここには断崖が海に落ち込む場所がいくつかある。その一つは高さ20メートル、ビルの高さだと五階に相当する崖が、海の上にそびえ立っていた。崖下をのぞき込むと、濃紺の海が波で大きく揺れていた。その波は岸壁にぶつかると、大きな白い波しぶきをあげていた。海の色から、この高さから飛び込んでも、十分な水深があるのは一目瞭然だった。日頃のサーフィンのトレーニングで、泳力には自身があったので、僕は飛べると思った。
この冒険にはバンガローのサーフィン仲間、10名が参加した。マークは「さあみんな、飛ぼうぜ!」と、風に負けない大きな声で言った。仲間の1人が恐る恐る崖下をのぞき込み、「風が強すぎる。風に押されて、体が崖にぶつかるかもしれない。危ないからやめよう。」と言った。マークは「崖から助走をつけて、できるだけ遠くに飛べば大丈夫さ!いいかい、みんな俺が飛ぶのを見てろよ。」と言った後、いきなり着ていたT-シャツをはぎ取った。彼は僕に向かって「タカ、俺が飛んだら、次にお前が飛ぶんだぞ!」と言った。その後すぐに、彼は雄叫びを上げなら、勢いよく海に飛び込んだ。僕たちは崖ぷちに近づいて、海の中のマークを探した。飛び込んでからしばらくすると、マークが海面に顔を出した。波風の音でマークの声は聞こえないが、しきりに身振りで僕たちに“早く飛べ。”と合図していた。相棒のマークが飛んだからには、僕が飛ばないわけにはいかなかった。僕は度胸を決めて、思い切り飛び込んだ。風で体が揺れているのがわかった。次の瞬間、ものすごい衝撃とともに海に着水した。体はどんどん海の深くに沈んでいった。これ以上沈まないところで、僕は海面に向かって必死に泳いだ。海面は大きな波で揺れていたが、周りを見渡すとすぐそばにマークが浮かんでいた。彼は「なかなかいいジャンプだったよ!」と僕に声をかけた。

裂けた唇

結局5名がクリフ・ジャンプを試みた。飛び込んだ皆が海面にそろった段階で、マークは皆に「陸に戻るからついてこい。」と言った。飛び込んだ崖の下まで泳ぐと、マークは波が彼の体を押し上げる勢いを利用して、崖にしがみついた。彼がやったように、波のタイミングをうまく利用しなければ、逆に体は引き波で崖から遠くに引きずられる。仲間の1人は壁にくらいついたが、引き波に捕まって、海中に逆戻りした。僕は、波のタイミングを見計らって、なんとか崖にへばりつくことに成功した。上を見上げると、マークがどんどん崖を登ってゆく。水際の崖壁は、海草が生えていてつるつる滑る。マークのように易々と崖を登ることはできなかった。
僕は飛び込むのに精一杯で、どのように戻るかは全く考えていなかった。実際には飛び込むより、崖をよじ登るほうがずっと困難だった。僕はなんとか登りきったが、極度の疲労で全身が脱力感に襲われた。崖上の地面で、しばらく真っ青に広がる青空を見ながら、大の字になって横たわっていた。すると、マークが僕の顔をのぞき込んで、「お前、口の中から血が出ているよ。」と言った。僕は上半身を起こして口の中を指でさわってみると、上唇の中が裂けていた。マークは続けて、「クリフ・ジャンプのように高所から飛ぶ場合は、しっかり口を閉じていないと、水圧で唇の中が切れてしまうよ。」と言った。僕はそんなことも知らずに、口を開けっぱなしで飛び込んでいたのだ。マークに唇の怪我を指摘されると、上唇の中が突如、ひりひり痛み出した。マークは、「タカ、もう一回飛ぼうぜ!今度は口をしっかり閉めるんだぞ。」と笑いながら言ったが、僕は今度飛んだら、崖の上に戻れる自身がなかった。「もう、止めておくよ。」とマークに言った。その後、マークはたった1人で、また例の雄叫びをあげながら、再び崖下に飛び込んでいった。

2008年4月7日月曜日

ハワイー5


世界中から集まった若者たち

バンガローでの共同生活は、自然のリズムに調和した極めて健康的な毎日だった。エアコンのない木造のバンガローの共同部屋は、就寝中も窓が開けっ放しだった。朝、辺りが明るくなり始めると、涼しい風と小鳥の鳴き声が開いた窓から部屋の中に入ってきた。日々のサーフィンの疲労のせいか、ベッドから簡単には起き上がる気がしない。だが、この自然の朝の気配は時間の経過とともに強くなり、午前9時にもなると、うかうか寝ていられなかった。
朝食にはマフィンやシリアル、バンガローの庭に育つバナナやマンゴーなどの果物を庭で食べた。朝食が終わる頃、ハワイ特有の容赦ない日差しが照りつけ始めていた。ヨーロッパ人の友人たちと全部で5名、僕が借りたレンタカーに便乗して、バンガローから15分程度の海へ向かった。一番仲良しのドイツ人、ヨルグは、窓から吹き込む風に見事な金髪をなびかせながら、短パンのみの格好で助手席に座っている。ヨルグはバッグ・パックからおもむろににんじんを取り出し、丸かじりし始めた。ヨーロッパ人たちはお腹がすくとリンゴやバナナなどの果物や野菜をよく食べる。僕も彼らの影響を受け、健康的な生活習慣が身についた。
長期間、彼らと生活していると、各々の国で人々の気質が違うことに気がついた。ドイツやスェーデン、ノルウェーなどのスカンジナビア諸国の人たちは、日本人の気質に似ていて、集団行動が得意で4〜5人で行動する。一方、ヨーロッパでもイタリア、フランス人は、どちらかというと単独行動を好み、多くても二人程度で行動する。英国人も単独行動する場合が多いが、イタリア、フランス人よりも友好的で、独特なユーモアがあった。ニュージーランド、オーストラリア人も多数いたが、彼らは人なつっこく、純粋なキャラクターのことが多かった。遠方からはブラジルや、南アフリカに住む白人もいたが、彼らは自己主張が強く、髪型やファッションが個性的だった。ハワイはアメリカ合衆国であるにもかかわらず、驚いたことに約30名いた宿泊客の中に米国人は一人もいなかった。何故だろうと思い各国の人たちに尋ねると、「個人主義をとても重んじる米国人たちが、このような共同生活に自ら参加することは極めて稀です。」と答えた。さまざまな国の若者たちと交流することで、
ある日の夕方、僕はマフィンを一ダース買って、その一つを食べた後、共同冷蔵庫にしまっておいた。翌朝、残りのマフィンを食べようと冷蔵庫をのぞき込んだが、跡形もなかった。お腹をすかした若者たちとの生活は全てがこんな感じ。つまり、共同生活においては自分の物はみんなの物でもあった。僕は、この生活を通して日本と世界の常識の違いを知ることになった。しかし、こういった経験が、その後、世界基準で生きてゆくのに不可欠な要素となった。

2008年3月27日木曜日

ハワイー4


飯島夏樹さん

その午後、僕はこのビーチで無我夢中でサーフィンの練習を行った。ハワイの4月の気温は30℃と暖かい。だが、北カリフォルニア方面からから西に向かって流れる寒流の影響で、海水温は25℃程度と意外に低い。体幹部を包むウエットスーツを着用していたが、陸に海の中に3〜4時間近くつかりっぱなしでいると、強い風に体温を奪われ、体が冷えた。夕刻4時近くなると、日中燦々と照り続けていた太陽はマウイの海に沈み始め、すでにその勢いを失っている。太陽光で暖をとることはできないが、ビーチの砂はまだ暖かい。僕は冷えた手足を砂に埋めると意外に暖かく、ほっとした。仰向けになっていると、顔についた海水が目に流れ込んできた。海水で凍みる目をなんとか開けると、ハワイの澄み切った青空が一面に広がっていた。それは「ついに憧れのハワイでサーフィンが出来た。」と充実感と幸福感に包まれる瞬間だった。
しばらくすると太陽は真っ赤に染まり、海の彼方へ沈み始めた。もう誰もいないだろと思いながら遠くの海を眺めていると、1人のサーファーがすでに暗闇に包まれ始めた沖か戻ってきた。この男性は真っ黒に日焼けした大柄な日本人だった。彼は当時日本のトップサーファー、飯島夏樹さんだった。僕は「こんにちは、飯島さん。いつも応援しています。」と声をかけてみた。彼は「ありがとうございます。なんとか世界で勝てるよう頑張ります。」と、さわやかなほほえみを浮かべた。飯島夏樹プロは数年前、肝臓癌で他界するまで、日本のサーフィン界で圧倒的な強さを誇っていた。持ち前の体力で最後まで癌と闘い、あきらめないことの大切さを彼は著書や映画で訴えていたのが記憶に新しい。20年近く前のこの日、彼が情熱を注ぎ続けたサーフィンの姿を僕はマウイ島で垣間見た。

外人コンプレックスの解消

帰り支度をする頃、辺りは真っ暗になっていた。まだハワイに滞在して2日目であったが、次々に起こる新しいことの連続に僕の心は躍った。“やっぱりここへ来て良かった。” 砂だらけの裸足のまま、海辺からハイウェーに通じる凸凹道をゆっくりと運転しながらそう思った。バンガローに戻ると、お腹がぺこぺこになっていた。夕食はバンガローの外庭で5ドル払うと、ステーキ、焼芋、サラダがたっぷり食べられる。夜7時から始める夕食には世界中から集まったサーファーやバックパッカーたちが勢揃いした。食事をしながら僕は一人のドイツ人に「ハワイにどれくらいの期間滞在する予定ですか?」と尋ねた。
「2週間です。」
「学生ですか?」
「はい。新学期前の休みを利用して3ヶ月ほど世界を旅しています。」
「随分長い休みが取れるのですね。」
彼は「ドイツでは社会人になっても、一年に6週間の連続休暇を取ることが義務づけられています。休みを取らないと違法となり、減給されることもあります。」と言った。
僕は「僕の父は日本のサラリーマンですが、過去30年間3日以上連続で休みを取ったことありません。」と続けた。
彼は「そんなこと信じられません。あなたのお父さんは何のために生きているのですか?人生は楽しむためのものです。仕事をするために生まれてきたようでは本末転倒です。」と訴えた。彼らとの会話を通して世界と日本の常識の隔たりを強く感じることになった。
コミュニケーションを続けるうちに、僕はドイツ、スェーデン人たちと、とりわけ仲良くなった。サーフィンに行くのも、食事に行くのも彼らと一緒に行動を共にするようになり、一種の連帯感が芽生え始めた。肌の色の違いはほんのちっぽけなもので、その中にある物(ハートや感情)はどの人種だろうと変わらない。自己主張をしっかり相手に示すこと、それは自分の存在意義を相手に認めさせることになる。これが世界基準のコミュニケーションの核心なのだ。それを実践出来るようになると、僕がその頃強く感じていた外人コンプレックスはいつの間にかなくなっていた。それから一ヶ月間、僕は毎日海に通い、現地の人と見分けが付かないくらい真っ黒に日焼けした。サーフィンの腕もみるみる上達していった。

2008年3月14日金曜日

ハワイ-3


ハワイの海

朝9時近くになると、部屋の仲間たちは目を覚ました。彼らは新しい同居人の僕に、眠たい目をこすりながら挨拶と自己紹介をした。昨夜このバンガローに到着したときの緊張感はもはや感じなくなっていた。このバンガローには常に旅人が出入りしている。僕が彼らを意識するほど、彼らは僕のことを意識していない。きっと彼らは僕のことを小柄な東洋人がやってきた程度にしか考えていなかっただろう。そんな開き直りが出来てから、僕は次第に自身と元気を取り戻した。その日の朝、僕はサーフィンの道具を調達にサーフィン・ショップに向かった。ハワイでのサーフィンは一体どんな感じなのだろう?胸をわくわくさせながら海に向かって車を走らせた。海辺までの道は防風林で覆われていて、なかなか海が見えない。道路が丘に向かって上り始めると防風林がとぎれ、見通しが良くなり、急に海が見えてきた。ハワイの波は北太平洋の彼方から一定のリズムでやってくる。沖からやってきた大きなうねりは岸辺近くの珊瑚礁リーフの浅瀬に近づくと、大きな白波に変化する。その様子が車を止めた丘の上からよくわかった。“おやっ?”と思った。大きな波の中に何かが見える。さらに車を近づけるとそれがサーファーだとわかった。波の大きさは少なく見積もってもサーファーの背丈の3倍以上はある。こんな大きな波を見たのは初めてだった。僕は車を丘の上に止めて、水際まで夢中で駆け下りた。浜辺は風と波が砕ける音が鳴り響き、水しぶきが強風で目を開けるのもやっとだった。ついにここまでたどり着いたと思った。
波は浜辺近くで大きくせり上がった後、ブレイクする。その大波に数人のサーファーたちが果敢に挑戦していた。1人のサーファーは大きな波に乗ったと思いきや、その波に飲み込まれた。その波は浜辺近くの浅瀬で砕け、真っ白に混濁した泡状の海水に変化した。僕は固唾を飲んでそのサーファーの行方を追った。だがサーファーの姿はなかなか見つからない。しばらくすると、真っ白な海水の中からサーフボードとサーファーが姿を現した。その間数十秒、サーファーは水面下で波にもまれていたのだ。“もし僕自身があの波の中に飲み込まれたらどうなるだろう?”、僕の心は恐怖心でいっぱいになっていた。浜辺には多数の観客がいた。僕はその中の1人に「随分波が大きいようですが?」と尋ねてみた。その男は「これがハワイのビッグウエーブ、この春一番の大きさだよ!」と興奮気味に答えた。腰くらいの高さの北海道の波しか経験したことない僕は、世界中で一番大きな波を間近で見ていた。ハワイ滞在期間は1ヶ月余りしかない。僕は丘の上に止めた車に戻り、マウイ市街近くのビーチに戻った。この波風穏やかなビーチでサーフィンの腕に磨きをかけなければ、あの大波には到底太刀打ちできない。その日の午後、僕は1人でサーフィンの特訓を開始した。

2008年2月19日火曜日

ハワイ-2


バンガロー到着

車を右往左往させながら、僕はなんとか宿泊予定のバンガローに到着した。時刻は午後3時を廻っていた。中に入ると正面カウンターあたりから、テンポの良いラジオソングが流れている。中に人影はなく、皆出払っているようだった。僕は「誰かいませんか?」と呼びかけてみた。何度が呼び続けると、上半身裸、ジーンズを膝上まで切り取ってショートパンツを履いた大きな白人男性が現れた。身長は190cmくらいだろうか。僕は彼を近くで見上げると長い金髪をなびかせていた。僕は一瞬たじろいだ。彼は「今日は暑いね。でも波が大きいからサーフィンには最高だよ。」と言った。僕は「えーと。今晩からここに宿泊したいのですが。」彼は「ようこそ、私たちのバンガローへ。あなたの名前は?」と続けた。僕は自分の名前を告げた。彼は「部屋は4人部屋、前払制で一泊10ドルです。何泊する予定ですか?」僕は黙った。新しい環境、言葉の壁、この男との体格差、全てに圧倒された。ここでしばらく暮らしてゆく自身がすぐにはなかった。彼は僕の不安そうな様子を察したのか、「心配しないで。退出前日までに知らせてくれれば結構。」と言った。
チエックイン終了後、彼は僕を部屋へと案内した。部屋に入った途端、汗の臭いがぷんとした。一泊10ドルの共同部屋なので、その程度のことは覚悟していた。僕は部屋の中を見回した。二組の二段ベッド部屋の壁側にお互いが向き合うように置かれていた。バックパッカーと思われる若者が宿泊しているのだろうか?ベッドの周りに大きなバックパックや、ハワイの地図が無造作に置かれていた。僕には一方の二段ベッドの上が寝床としてあてがわれた。とりあえず体を休める場所が決まるとほっとしたのだろう。僕はすぐに激しい眠気に襲われた。それもそのはず、日本時間にすると昼過ぎまで夜通し起きていたことになる。僕は一休みしようと横になったが、何か物足りない。よく見るとベッドの上には枕が一個と、薄っぺらなシーツが一枚置いてある。だが、毛布や掛け布団らしきものは用意されていなかった。ハワイは常夏なので、体の上には何もかけないで寝るのだろうか?だが、寝るときは夏でも何かにくるまって寝る習慣のある僕は、体の上に何もかけずに寝るのはどうも落ち着かない。
僕はもう一度受付に戻って、「すみません。毛布はありますか?」と尋ねてみた。受付の彼はきょとんとした顔をして、「えっ、毛布?ちょっと待って下さい。探してみます。」と言いながら奥の方に入って行った。しばらくすると「一枚余っているのがあったよ。でも、ハワイは暖かいから毛布なんか必要ないと思うけれど。」と言いながら僕に毛布を渡した。よく見ると毛布はぼろぼろでしみだらけだったが、ないよりはましだった。僕は体に毛布を掛けた途端、安心してあっという間に眠りに落ちた。

自己紹介

あたりのざわめきに気がつき、目を覚ますと辺りはすでに暗くなっていた。時計を見ると午後7時近かった。3時間ほど眠りに落ちていたことになる。頭を持ち上げて部屋の中を見回したが、誰もいなかった。耳を澄ませると、先ほどの受付辺りから話し声が聞こえてきた。部屋のドアを少しだけ開けて声の聞こえてくる方を覗いた。受付近くのソファに3〜4人の若者たちが腰掛けながら、楽しそうに話していた。僕は部屋から出ようと思ったが、見知らぬ外国人たちにが気になり、足を踏み出せなかった。当時の僕は自分のことを、小柄で英語も話せないちっぽけな日本人と認識していた。つまり、自分に自信がなく、体格が大きくて颯爽としている外国人たちに対して、明らかな劣等感を持っていた。だが、現状を打開するにはこの部屋を出て、彼らに自己紹介する以外なかった。
僕は勇気を奮い起こして部屋を出た。彼らは僕と同じくらいの年齢だろうか?「こんにちは。」僕はこわばる表情を出来るだけ柔らかくして話しかけた。彼らの一人がにこにこしながら「やあ、こんにちは。君はどこかからきたの?」と尋ねた。「日本から来ました。」彼は僕に近寄って握手を求めた。彼は続けて「僕の名前はヨルグ。ドイツのハンブルグからサーフィンのためにマウイに来ました。」と言った。「日本の北海道を知っていますか?札幌です。昔、冬季オリンピックが開催されたことがあります。」僕は慣れない英語を使って自己紹介をした。このドイツ人の若者はさらに何かを伝えようとしたが、なかなか言葉が出てこない。彼はようやく何か言い始めたが、ドイツ語なまりが強く、何を言っているか理解できなかった。彼は僕に向かって照れながら「ごめんなさい。僕の英語はへたくそなのでうまく説明できません。」と言った。僕はとっさに「僕の英語もあまりうまくありません。これからしばらくここで暮らします。よろしくお願いします。」と微笑みながら答えた。この自己紹介を終えると、僕が部屋を出る前に感じていた不安はすっかり解消された。その夜、僕は疲れが限界に達して、近くのコンビニショップのサンドウィッチを食べた後、すぐに眠りに落ちた。
辺りが明るくなっているのに気がつき、僕はふと目を覚ました。少しだけ空いている部屋の窓から朝の涼しい風が吹き込んでいた。朝を告げる小鳥たちの賑やかなさえずりが聞こえてきた。時計を見ると午前6時頃だった。約12時間近く、ぶっ通しで寝ていたことになる。この部屋の住人たちは戻ってきているのだろうか?二段ベッドの下をのぞき込んでみた。下のベットには大柄の白人男性が裸同然の姿でぐーぐー寝息を立てながら寝ていた。向かいの二段ベッドを見ると、北欧人らしき金髪白男性の若者たちがぐっすり寝ていた。ハワイの午前6時は日本時間で真夜中12時に相当する。僕は彼らを眠りから起こしてはまずいと思い、もう一度寝ようと目をつぶった。しかし、たっぷり寝たせいか、さすがにもう一度眠ることは出来なかった。部屋の天井を見ながら、つい数日前のまだ春にはほど遠い北海道のことを考えた。“日本から飛行機で7時間飛んだだけでこんな別世界に来れるなんて。”ハワイに到着したときに感じた不安はもうどこかに行ってしまった。その代わりに、これから起こるであろう全く未知の経験や、新しい人たちとの出会いへの期待で胸が膨らみ始めていた。

2008年2月1日金曜日

ハワイ-1


医師国家試験

2月末の札幌、1年で一番寒い季節を迎えていた。僕は医大でのカリキュラムを全て終了し、医師国家試験までの残り一ヶ月を受験勉強に費やす毎日だった。アリとキリギリスの童話にたとえると、僕は典型的なキリギリス型。追い詰められるまで何もしない性格なので、医師国家試験合否の行方も最後までわからない。残りわずかな時間、もう少し頑張って医師国家試験に合格すれば、その後少なくとも1ヶ月半は自由の身となる。つらい試験勉強を乗り越えるため、僕は試験終了後に自分自身にご褒美を用意した。それはサーファー憧れの地、ハワイでのサーフィン修行だった。
医学生時代、僕は冷たい北海道の海でサーフィンに情熱をかけていた。自然と一体感が得られるこのスポーツには中毒的要素があり、やればやるほどはまった。皮肉なことに夏の北海道の海は波風が弱く、サーフィンには物足りない。逆に冬、波風はサーフィンには格好のコンディションだが、雪の降りしきる中で海に入いると、寒さで凍えそうになる。そんな命がけのサーフィンはもうこりごりだと思った。北海道で思う存分サーフィンが出来ない欲求不満を持ちながら、僕はいつかハワイで思いっきりサーフィンすることを夢見ていた。
夜型生活が性に合うのか、受験勉強をしていると日に日に寝る時間が遅くなってゆく。“そろそろ寝なければ。”と思うが、神経が高ぶっていて簡単には寝つけない。勉強を終える頃、時計を見ると時刻はいつも午前3時を廻っていた。その頃、僕は受験勉強の合間を見て、旅行準備を進めた。ハワイと日本の時差は16時間、日本の午前3時はハワイ時間で、前日の午前10時であった。一人旅なのでサーフィン雑誌に掲載されている“バンガロー”(ハワイで一般的な平屋建ての宿)に直接電話をかけた。いざ自分1人で予約を取るとなると、僕のつたない英語に不安を感じ、胸の鼓動が高鳴った。やっとの思いで宿の予約を取ることに成功した。時計を見ると時刻はすでに早朝5時を廻り、窓の外は明るくなり始めた。雪が降る寒い朝だったが、僕の心はすでに楽園ハワイに向かい始めていた。3月末に行われた医師国家試験、僕はベストを尽くした。友人たちと答え合わせをすると、合格ラインに達していた。ぼくは心の中で“やった!”と叫びながら幸せを感じた。

マウイ島

試験終了2日後、僕はハワイに飛んだ。4月上旬のハワイ、太陽がさんさんと降り注ぎ、気温は優に30度を超えている。日本から国際便が乗り入れるホノルル空港にはたくさんの日本人観光客がいた。僕の最終目的地はマウイ島だ。ホノルル空港発マウイ島行きの国内線に日本人の姿はない。頼れるのは自分一人だったが、当時の僕は要を足せるほどの英語力しかなかった。30分ほどの飛行時間でマウイ・カフルイ空港に到着した。この空港は天井が吹き抜けで、小鳥たちがさえずりながら出たり入ったりしている。マウイはいかにも楽園らしい雰囲気が漂っていて、着いた途端、この島を好きになれそうな気がした。
空港に到着してまず必要なのがレンタカー、あらかじめ予約していたものの、どうしたらよいのか全く検討がつかない。アメリカは車がなければ何もできない。数日前終えたばっかりの医師国家試験のことはもう頭にない。誰も頼れる人のいない海外で、この先どう乗り切るかで急に不安になった。時刻は正午を廻り、照りつける太陽で体から流れ出る汗が止まらない。いらいらしながら、“こんなにつらい思いをするはずじゃなかった。”とぐちったが、どうにもならない。とにかく前に進むしかない。しばらく空港内外を右往左往して、ようやくレンタカー事務所にたどり着いた。何とかレンタカーを借りるのに成功した。
しかし当時の米国レンタカーにはナビもなく、どうやって宿に行けばよいのか皆目見当がつかない。レンタカー事務所で宿の場所を教えてもらっても、英語が早すぎてさっぱりわからない。僕はわかったふりをして首をたてに振りながらレンタカー事務所を退散した。大学を卒業したばかりの25歳の僕。昔から後先を考えずに行動する癖があったが、今回ばかりは途方にくれた。“このまま旅行をキャンセルして、日本に帰ろうか?”とさえ考え始めた。
車の冷房を最大限に効かして頭を冷やすことにした。しばらく呆然とした。ラジオのスイッチをひねると、昔良く聞いていたポップソングが流れていた。こんな時に懐かしい音楽を聴くと、とても感傷的な気持ちになる。同時にこの音楽に勇気づけられてか、全身に力がみなぎってきた。“夢にまで見たハワイにまで、せっかくたどり着いたのに簡単にあきらめるわけにはゆかない。きっと何とかなるさ!”僕は車のリクライニングシートを真っ直ぐに起こした後、ゆっくりと車を動かし始めた。

2008年1月13日日曜日

地球温暖化


暖冬の北海道

久しぶりに故郷の札幌に戻った。僕が札幌で活動していたのは、今から20年近く前の青春時代だった。その後20年間、僕はニューヨークや東京で暮らしていたので、過去20年間の故郷の記憶が存在しない。そのため、今回の帰郷で20年前と現在の札幌の違いをはっきりと比較出来た。20年前の札幌の冬はとても寒く、玄関先に積もった雪の量があまりにも多くて玄関が開かないこともあった。当時の北海道の冬、2車線ある道路は雪の影響で1車線になった。のろのろ運転をしいられ、どこに行くのにも通常時の倍以上時間がかかったものだ。今の札幌にはそのような面影はほとんどない。道路はアスファルト路面が出ていおり、ほぼ夏と同様に走れる。暖冬の影響で、雪による不便が減った分、北海道にとっては良いことなのかもしれない。しかし、冬がこのように暖かくなると、何か寂しい気がしてならない。ついこないだ、12月末には季節外れの雨が降り、地上の雪がほとんど溶け出した。札幌の12月末の雨は僕の記憶には存在しない。
僕が学生時代、スキー・インストラクターとしてアルバイトをしていたスキー場を久しぶりに訪れてみた。昨シーズン行ったアメリカ、ユタ州スノーバードスキー場から約1年ぶりのスキーだった。スノーバードスキー場は標高3000メートルに位置しており、酸素が薄いので少し滑るだけで息切れした。札幌手稲山は標高1000メートル、スノーバードスキー場に比べると、それほど辛くない。僕はしばらく体を慣らした後、かつてモーグル競技のトレーニングをした急斜面に行った。この急斜面は一般スキーヤーの立ち入りを禁止するコース外で、山頂に伸びるロープウェー直下にある。コースの幅は10メートル、両側は森で囲まれている。急斜面を真っ直ぐにしか滑れないので、モーグルトレーニングにはうってつけの場所だった。僕はスキーで滑りながら森を斜めに横切り、この急斜面にたどり着いた。誰もいない斜面、懐かしいと思って見渡した。しかし、斜面には短い木々が雪の上から出ていて、とてもスキーが出来る状態ではない。降雪量が少な過ぎて、これらの木々を雪が覆いきれていないのだ!こんな場所まで地球温暖化の影響が現れている。先日見た映画、“アイ・アム・レジェンド”を彷彿させる状況だった。映画“アイ・アム・レジェンド”は近未来の地球、科学者の開発した殺人ウイルスが世界中に蔓延し、主人公のウイル・スミス以外のアメリカ人口が全滅する。誰もいなくなったニューヨーク・マンハッタン、路上に乗り捨てられた車の脇を草木が生い茂っている。僕は映画のそんな光景を、木々がむき出しとなった雪面を見ながら想い出した。

みんなで守るべき地球の将来

北海道には“根雪”という言葉があり、これは一度降った雪が溶けないまま、春先まで残ることを意味する。当時は根雪が当たり前だった。現在、札幌の雪はなんとか根雪が残ってはいるものの、近い将来それすら消えてしまう予感がする。札幌で毎年2月に行われる雪祭りでは雪像を作る雪がない。その雪は近郊の山から自衛隊員たちが運んできて、なんとか雪祭りを維持している。元アメリカ副大統領、アル・ゴア氏の映画“不都合な真実”によると、あと10年以内にアフリカキリマンジャロ山頂の雪は完全に消える。また、北極の氷はあと50年以内に溶けつくすであろう。現在も北極の氷はどんどん溶けており、氷の上で生活するホッキョクグマが溺死したケースもすでにある。北極の氷が全部溶けると、平均海面が6メートル上昇し、ニューカレドニアなどの平らな島国は水の中に消えてしまう。
地球温暖化の主な原因は、増加し続ける二酸化炭素排出量に他ならない。二酸化炭素は大工場や車で使用される石油燃焼で大量排出される。この石油価格が最近著しく上昇している。これは地球自身がこれ以上、二酸化炭素を排出させないように自己防衛しているのかもしれない。幸運なことに日本の二酸化炭素排出量は、アメリカや中国に比べるとそれほど多くない。だが、ヨーロッパと比較すると、日本のクリーンエネルギー転換基盤は後れを取っている。アル・ゴア氏は地球温暖化を食い止めるには、一人一人の地球温暖化危機の認識が重要と主張する。そして、彼は我々の子孫が安全に地球で暮らし続けられるよう、使命感を持ちながら、世界中で地球温暖化阻止のための講演を続けている。僕も久しぶりに故郷に戻ってみて、地球温暖化が現実を肌で感じた。我々は地球上の生命存続に関わるこの一大事を、黙って見過ごすべきではないと感じた。

2008年1月3日木曜日

スキーインストラクター


体が重たい朝

蒲団の間から冷たい空気が流れ込み、“ずいぶん寒いな”と感じて目を覚ました。“いったい、今何時頃だろう?”と、眠たい目をこすりながら窓のほうを見た。カーテンの隙間から朝の光が漏れていた。“いけない!また寝坊をしてしまったのだろうか?”僕は慌てて時計を見ると時刻は午前7時半、“まだ間に合う”とほっとした。昭和60年頃(今から約20年ほど前)の冬、僕は北海道のあるスキー場でスキーインストラクターとして働いていた。蒲団から起き上ろうとしたが、筋肉疲労でかちかちになった体が痛くて思うように起き上がれない。この冬はすでに連続15日間、寒さと闘いながらスキーに取り組んでいた。目覚めとともに空腹感が襲う。“何か食べ物はないか?”、昨晩実家から持ってきた正月用おせち料理を枕元に置きっぱなしにしたことを思い出した。暖房のついていない部屋の温度は10度以下、冷蔵庫と大差がない。冷えたおせち料理を寝ながらほおばった。“スキーインストラクター”、その響きは随分かっこよく聞こえるが、やっていることは肉体労働そのものであった。スキーを滑っている以外の時間、僕はまるで動物のように寝ているか何かを食べるかのどちらかしかなかった。お腹に食べ物を入れて、ようやくはっきりと目が覚めた。重たい体を蒲団から引きずり出して洋服を着た。カーテンを開けると、外には雪が降りしきっている。“なんだよ、今日も雪か”、僕は思わずぼやいた。毎日雪の上に長い間いると、正直雪を見るのにうんざりした。車のエンジンを始動させた後、前夜から降り積もった車の上の雪を払うが、車窓にこびりついた氷は簡単には落ちない。スクレイパーと呼ばれる道具でがりがりと氷を削り落した。手袋をはめ忘れた両手は冷えきり、痛みを感じるほどだった。時刻はすでに午前8時まわった。急いで出発しなければ午前9時の集合時間にまた遅刻する。その頃の僕はだらけた医学生生活をしていたせいか、時間にルーズで遅刻の常習犯だった。スキー学校の校長から「時間厳守は社会人の常識、君は責任感がない。」といつも怒られっぱなしだ。“今度遅れるとまずい”、僕はスキー場への道を急いだ。車のスピードを上げると降りしきる雪の勢いが増し、車のワイパーを最速にしても前がよく見えない。雪の降りしきる雲の厚い日は、朝でも夕方のように暗く気分も重くなる。車のカセットテープから流れるテンポの良い洋楽がこんな憂鬱な朝のせめてもの救いであった。

スキーレッスン

真冬のスキーインストラクターの仕事は想像以上に過酷だった。朝9時に集合し、30分のミーティング後、午前中のレッスンが始まるまでの一時間、コース点検と自主トレの時間だ。そのころの僕はモーグル競技の選手だったから、少しでも上達しようと一生懸命だった。午前中のスキーレッスンで、僕は全くのスキー初心者にスキーを教えることを出来なかった。それは僕がスキーを3歳頃、歩くと同時に始めたので、“どうやって歩くか?”を人に理論的に教えられないのと同様、“どうやってスキーを滑るか?”その理論を知らなかった。それゆえ、僕のスキーインストラクターとしての仕事対象は、元気盛りの小学校高学年~中学生男子生徒が主だった。午前中のレッスン開始とともにすぐさま彼らを急斜面へと連れていった。僕は彼らに向かって大きな声で「いーかい、次はこの急斜面をノンストップでついておいで。」といった直後、真っ先に滑り降りる。総勢10名近くの少年スキーヤーたちは遅れまいと必死で後を追うが、少年たちにとって大学生の僕についてくるのは容易ではなかった。レッスンが終わりには冬だというのに皆汗をかきながら真っ赤な顔をして、はーはー、ぜいぜい言っていた。昼休みは大勢のインストラクターたちと昼食を共にするが、僕たち大学生からなるパートタイムインストラクターは、スキーを本職とするプロインストラクターたちとは一線を画していた。彼らに僕たち大学生のような甘えは許されない。スキーインストラクターも人気商売、お客さんから指名を取ると給料がアップする。極めて競争が厳しい世界にいるせいか、プロインストラクターたちはみなどこかピリピリしていて、うかつに話しかけることも出来なかった。僕は一冬スキー漬けでいると、“プロスキーインストラクターとして生きてゆくのも悪くないかな?”という気持ちになった。しかし、彼らの現実の姿を垣間見た結果、「スキーを仕事にして飯を食ってゆくのは思った以上に大変そう。医学部の勉強も大変だけれど、自分はとにかく医師になろう。」と考えた。午後から同様のスキーレッスンを行うが、ようやく天気が回復してきた。ひとたび太陽が照ると、雪に反射した光がまぶしくて目が開けられないほどだ。ゲレンデに戻ると元気いっぱいの少年たちが「先生、早く行こうよ!」と待ちかねている。少年たちより10歳ほど年上の大学生であった僕は、彼らにとって格好のお兄さん役だった。午後は彼らを森の中に連れて行くことにした。森の中は木々と雪に囲まれ、静寂で神秘的な感じさえする。森の深雪斜面を少年たちは僕に必死になってついてくる。僕は後ろにいる少年たちが、みなしっかりついてきているか時折振り返えりながら確認した。そうこうしているうちに少年の1人が、大きな声を上げながら転倒した。雪まみれになった少年を見ながら皆大笑いをした。僕は少年たちにスキー技術は何一つ教えなかったが、スキーの楽しさだけは十分に教えた。実際、彼らはそのほうがこと細かく技術的な面を教えるよりもずっと早く上達していった。

サムライスキーヤー

午後3時にスキーレッスンを終えるころ、冬の北海道の日没は早いため、辺りはすでに薄暗くなり始めていた。これから午後4時過ぎまでの一時間はスキーインストラクターたちの特訓の時間となり、今度は僕が生徒としてしごかれる。プロスキーインストラクターたちの中にはオリンピックやワールドカップに出場予定のつわもの、“サムライスキーヤーたち”がいる。スキーの腕を上げるには、こうしたスキーの達人たちにくっついていくのが一番早道だった。リフトを降りてしばらく続く緩斜面を、インストラクターの一団は、まるで海の中を自由自在に泳ぐイルカのように滑り下りて行く。ウォーミングアップが終わる頃、僕たちの目の前に急斜面が立ちはだかった。ここは西暦1974年、札幌オリンピックが開催された時の女子大回転コースだ。この斜面に30人近いスキーインストラクターの集団が集まると、あたりは一種独特の雰囲気に包まれた。周囲のスキーヤーは滑るのを止め、われわれインストラクターにコースを譲る。コブだらけの急斜面をいかに直線的に滑り降りるかが今日の課題だ。僕たち下端インストラクターたちは威圧感あふれる“サムライスキーヤーたち”のお手並みを拝見する。間もなく彼らは一人ずつ順番に、もの凄い勢いでコブだらけの急斜面を滑り降り始めた。そのスピードと技術に圧倒されて、僕たち下端インストラクターや、辺りのスキーヤーたちはみな絶句した。ここは完全なる実力社会、自分のスキー技術に自信がなければ彼らの直後に滑ることは出来ない。何故なら途中で転んだりすると、みんなの前で大恥をかくことになる。誰が次に滑るか、皆周りの出方を待っている。当時モーグル競技出場を前の猛特訓で実力をつけていた僕は、思い切って滑り出すことにした。目の前には大きなコブが次々と迫ってくる。雪しぶきが顔に当たり、前が一瞬見えなくなる。あとは感に頼りながら、リズムを失わないようにして一気に滑りきった。滑り終わるとあまりの緊張感から解放されたせいか、体が震えそうになる。僕の後から次々にインストラクターたちが滑り降りてくる。その中には雪煙をあげて転倒する者もいた。プロインストラクターたちはただ無言でそんな僕たちの滑りをじっと見ている。転ばないで最後まで勢いよく滑り降りた僕は、その時プロインストラクターに仲間入り出来たと感じた。

20年ぶりの急斜面

こうして、毎冬僕はスキーに情熱を注ぎ過ごしながら5シーズンを過ごした。1冬70日、大学生活の5年間で350日真剣にスキーを滑ったことになる。残念ながら僕はモーグル競技全国大会で、入賞することは出来なかった。スポーツは才能の上に努力をし、さらに運が味方して初めて成功者となれる。正直言って、僕にそこまでスキーの才能はなかった。才能のある同僚や、頭角を現した高校生の教え子たちはこの全国大会に入賞し、後年オリンピック出場を成し遂げるまで成長した。僕は大学を卒業すると同時に真剣にスキーを滑るのをやめた。一生分スキーを滑ったからもういいと思った。今年、約20年ぶりに僕が青春をかけた山に戻ってみた。多くがあまり変わっていないせいか、過去の記憶が昨日のことのように蘇る。変わったのは20年前ほど多くのスキーヤーがおらず、その代わりスノーボーダーたちで賑わっている。それでもスキー全盛期の20年前と異なり、スキーリフトには待ち時間なしで乗れる。スキー場にはスキーインストラクターたちらしき姿も見られ、その中にはなんと20年前一緒に働いていたインストラクターがまだいるではないか!僕はいつも練習していた斜面に向かうリフトを降りた後、例の緩い斜面をゆっくりと滑り終え、急斜面の前に立った。朝早いせいか辺りには誰もいなかった。急に胸に鼓動の高鳴りを感じ始めた。僕はこの急斜面を20年前と同じ気持ちで滑り始めた。

2007年12月29日土曜日

名医の条件―3(美容外科医の場合)


有能な外科医になるための条件はいくつもあることを前回までに述べてきた。では美容外科医の場合はどうだろう?美容外科医が一般外科医と異なるのは、美容領域ではいわゆる患者さんを治療するのではなく、健常人を対象とすること。したがって、有能な美容外科医は一般外科医に必要とされる条件を満たすだけではなく、それ以外にも必要とされる資質がある。では、以下にその代表的条件を列挙してみようと思う。

1) 美容外科医は手術が上手いだけでなく、コミュニケーション能力が優れている。
昔、勤務した一般外科系病院にはたくさんの医師が所属していた。こういった病院では診察、検査、手術が同時進行で進む。外来診察を受けた患者さんで手術治療が必要となったとする。しかし、この病院では手術はこの患者さんの外来診察をした医師と別の手術専門医師が行っていた。つまり、外来診察医と手術専門医が別々に存在することになる。こういった場合、外来診察医は患者さんとのコミュニケーション能力に優れているが、手術をする能力に欠ける。逆に手術専門医は、外来診察医が次々と手術患者を廻してくれるのでコミュニケーション能力がなくても外科医としてやっていける。こういった手術専門医は黙々と作業を行う職人のように手術を行う。したがって、手術専門医は患者とのコミュニケーション能力面を伸ばすことができない。
これらの外来診察医と手術専門医は二人一組で、外科診療の初めから終わりまで完結するので、このような医師がどちらか一人では開業医としては大成功できない。この両方の能力を兼ね備えることは一見容易そうで実は大変難しい。人はコミュニケーション(会話)能力と手先を使う脳部位は異なるためか、両方を同時に発達させるのは困難なのだ。美容外科医は開業医として診療を行うことがほとんどである。つまり、美容外科医はコミュニケーションと手術の両方の能力を備えていなければならない。この一点からだけでも、美容外科医として成功するのはかなり難しいことがわかる。

2) チャレンジ精神旺盛である。
一般診療の場合、治療は医師がチームを作って行う。その際、若手研修医は経験豊富な指導医に指導されながら実力をつけてゆく。美容外科診療は比較的新しく大病院や大学病院で行っている場所がいまだ数少なく、しっかりとした研修を受けることが難しい。美容外科医として実力をつけてゆくには、少ないチャンスを見逃さないようなガッツと学会などに積極的に参加する姿勢が肝心である。美容外科医は一人で診療することがほとんどなので、実力をつけた後、すべての診療行為に対して、自分一人の医師で全責任を持つ覚悟が必要である。

3) 人気があって、運気が良い。
人気や運気はどのような仕事でも成功するために必要な要素である。美容外科の場合、どちらかというとサービス業的な要素が強い。したがって、美容外科医が良い雰囲気を醸し出しながら良い仕事を続けていると、お客さんが自然と集まり繁盛する。逆にどんなに最先端の技術を習得していたとしても、その医師の持つ運気が悪いと思ったように物事が進まないことがある。かつて勤務していた地方病院に都会の大病院から中堅の外科医が転勤してきた。僕はそのとき“おやっ、どうして都会から地方の病院にやってきたのだろう?”と、ふと思った。就任して間もなくこの医師は、腰痛を訴える70歳の男性を担当した。患者さんの腰痛の原因は腰椎椎間板ヘルニア、手術治療が必要と診断された。早速手術が行われ、手術は何一つ問題なく終わったかのように見えた。しかし、この患者さんは手術終了後、症状が改善しないばかりか、手術を受けたほうの足が動かないと言う。この外科医は手術に誤りはなく、適切に終わったと主張した。腰椎椎間板ヘルニアの手術は、僕も整形外科医の時にちょくちょく行ったが、慎重に行えば決して足が麻痺するなどの副作用が出たりはしない。この中堅外科医は“しばらく様子を見るしかない。”と患者に説明したが、患者さんの表情はどことなく不安そうだった。
時間が経過しても患者の症状は一向に改善しないため、ほかに原因がないか全身検査を行った。すると手術が行われた部位とは異なる脊髄部位に腫瘍らしき影が映っていた。さらに検査を進めると、その影はなんと前立腺がんの転移巣であることが判明した。結局、その外科医の治療は何ら問題がなかったのだが、患者さんの家族は“手術前に動いていた足が手術後に麻痺したのは手術のせいだ。”と決めつけ、手術を行ったその医師に強い不信感を抱いていた。風の噂によると、この医師の手術には過去にも同様な事故が起こっていたらしい。この例のように、偶然と思えない不慮の出来事が重なるのは、その人間の運気の良し悪しとしか言いようがない。美容外科医として無難に手術をこなしてゆくには、すぐれた治療技術とともに良い運気を身につけるこがとても大切である。

4) “医療は患者さんのためのもの。”という大原則を忘れない。
一般的外科医の究極目標は、いかにレベルの高い最新の手術を行えるか、もしくは新手法を開発できるかであろう。しかし、美容外科医の場合はそれ以上に大切なものがあることを忘れてはいけない。どんなに高いレベルの手術を行えても、それが患者さんに役立たなければ全く意味がない。ここでわかりやすい例をあげてみよう。美容外科領域において、同様の結果を求めた二つの治療方法が仮にあったとする。得られる結果はほとんど変わらないとして、一方は簡単かつ短時間で終了する。もう一方は複雑かつ長時間かかる。どちらが良い治療であろうか?もちろん、前者であることは言うまでもない。何故なら簡単かつ短時間で終了する方が、腫れが少なく回復が断然早い。しかし、高い技術を習得することを目標とする外科医にとってはどうだろう?それは、患者さんにとっては驚くべき事実であろうが、後者を選択する外科医も少なくない。美容外科領域において本当に大切なことは何であろうか?繰り返しになるが、医療が患者さん中心のものである大前提に立つと、簡単で短時間で終了する手術の方が優れていることに他ならない。

5)“本当の美しさ”を知る。
美容外科医にとって技術より大切なことがある。それは“本当の美しさを知る”こと。“美しさ”とは何かを常に知る努力を惜しんではいけない。女性を主たる治療対象にする美容外科医は、彼女たちが望む“あくなき美への欲求”を満たし続けなければならない。そんな彼女たちにとって、手術技術がどうであるかは二の次、結果さえ良くて早く回復すれば文句はない。そこに手術技術を誇る外科医のプライドの出る幕はない。では“本当の美しさを知る”にはどうしたらよいのだろう?これはフランス美容外科医の大御所から聴いた話だがそれは美しさに感動する以外にない。可憐な女性が目の前を偶然に通り過ぎた時に感じた“はっ”する思い、喜び溢れた少女の笑顔の可愛いらしさ、対象は人間だけではない。野に咲くバラの花から落ちる朝露や、真っ赤に染まった夕日でもいい。美しさに感動したとき、その感動の原因を心に留めるようにしていると、“本当の美しさ。”が何か分かるようになる。つまり、美容外科医にとって“美しさの感受性”を有する方が、最新技術を習得するより、むしろ大切と言っても過言ではない。

これまで述べてきたように、美容外科医として成功するのは並大抵のことではない。最新外科手術の習得に精進してもまだ足りない。“魅力ある人間として成長し続ける”、これこそが美容外科医として成功する最大の秘訣であろう。

2007年12月19日水曜日

名医の条件-2(ある整形外科医の例)


適切な診断能力

ある外科医から聞いた話だが、10人の新人外科研修医がいたとすると、7〜8人は平均的な能力、その中の1〜2人は外科医として役に立たず、その中の1人が有能な外科医になれる可能性があるとのこと。前述のごとく、外科医として成功するにはいくつかの条件を満たさねばならないので、確率的にはこれくらいが妥当かもしれない。僕が外科研修医として北海道の病院に勤務していた頃出会った有能な整形外科医の例を挙げてみよう。整形外科には主に首や腰の痛みを訴えて患者さんたちがやってくる。ある患者さんがこの医師に次のように訴えた。「先生、腰が痛くて辛いのです。何とかなりませんか?」。医師は「レントゲン写真を見ながら、「うーん、確かにこの感じだと痛いでしょう。骨の間が狭くなって神経を刺激しています。」と答えた。患者さんは「先生、どうしたら良いでしょう?」と医師に問い返した。医師は「痛みの原因は運動不足による腰部筋力の低下が原因です。」と答えた。患者さんは「薬を飲んでもだめですか?なんとかすぐに治してもらえませんか?」医師はここではっきりと次のように述べた。「痛みは時間の経過とともに少しずつ良くなります。ある程度痛みが治まったら、筋力を鍛えるべきです。」と答えた。患者さんは、不服そうな顔をしながら「先生、この痛みのせいで仕事に行くことも出来ません。今すぐなんとかなりませんか?何か良い薬はありませんか?」と訴えた。医師は「薬は気休め程度に飲むならいいかもしれません。しかし、体を丈夫する以外、根本的解決はありません。」と告げた。患者さんはよほど痛かったのか「では手術で治すことはできませんか?」と続けた。医師は「手術であなたの痛みを和らげることは不可能です。」とはっきり答えた。
このように医師が患者さんにとって何が必要なのか真実を伝えることは簡単そうで難しい。病院の売り上げを重視し、気休め程度の薬をたくさん処方し、必要のない検査や効果のない治療を行うのが一般的だから。しかし、いくら治療を行っても、良い結果が出なければ次第にその医師の評判は落ちてゆく。つまり、利益優先に治療を行うと、患者さんの数が減少し自分の首を絞めることになる。本当の医療は“急がば回れ。”で、利益に直結しなくとも、患者さんのために一番価値のあることを選択すべきである。そのほうが次第に患者さんの数が増え収益にも結びつくことが多い。名医と呼ばれる医師たちはその辺の事情をしっかりわきまえている。

外科医の決断

次に腰痛と足のしびれを伴う患者さんがやって来た。医師はその患者さんに「足のしびれはいつ頃から現れましたか?」と問うと、患者さんは「3ヶ月前頃から現れて次第に悪化しています。」と答えた。医師はMRI所見を観察した後診察を行い、その診断結果を患者さんに次のように述べた。「○○さん、診断は腰椎椎間板ヘルニアです。骨と骨の間の椎間板が神経を圧迫しています。」患者さんは不安そうにMRI写真をのぞき込みながら「先生、治す方法はありますか?」と尋ねた。医師は「ヘルニアは完全に飛び出していますから、症状を改善するには手術が必要となります。」と告げた。患者さんは「手術ですか・・。」と絶句した。患者さんは続けて「手術失敗の可能性はありますか?」と医師に尋ねた。医師は「症状が完全に回復しないことや一時的に足先にしびれが残ったりする可能性はあります。」と答えた。患者さんは「実はヘルニアの手術を受けた後に足が麻痺して動かなくなった人がいるとの噂を聞いたことがあるので、この手術が怖いのです・・。」と言った。医師は一呼吸おいてから、「手術は絶対に安全であると保証はできません。確かにヘルニア手術は不注意に行うと、神経損傷など重大な後遺症を残すおそれがあります。しかし、私がこれまで行ってきた数百例の症例に、そのような後遺症が起こったことは一例もありません。そして、これからも決して起こすつもりはありません。」と言い切った。その後まもなく患者さんは「先生を信じて、手術をお願いしようと思います。」と医師に告げた。
この医師の手術には数ヶ月助手として立ち会せていただいたが、その手さばきは見事だった。一度手術が始まると、流れを崩さず一気に肝心な所まで到達する。ここ一番は集中力を高め一気に乗り切る。上手な手術は常にシンプルで、出来るだけ短時間で終了するものだが、この外科医の手術はまさにその良いお手本となった。


インフォームド・コンセント

“ゴットハンド”として有名な脳外科医がテレビのインタビューで、“医師が医療過誤で訴えられるようになり始めてから、医師は患者さんとの間にインフォームド・コンセントと呼ばれる同意書をしっかりと交わすようになりました。しかし、医師が自分の身を守るために用いるようではいけません。”と語った。インフォームド・コンセントとは医師が治療に伴う合併症や後遺症の可能性をきちんと説明した上で、患者さんに治療にのぞんでいただく、いわゆる契約書のようなもの。この契約書で治療に伴う危険性を患者側に了解していただくと、医師はたとえ医療過誤が起きたとしても守られる可能性が高くなる。そのせいか、治療を行う前に医師側がありとあらゆる危険性を述べ、その同意を患者側から得られなければ治療を行わない医師が増えつつある。そういった保身に走る医師の増加への危惧をこの脳外科医はインタビューで述べていた。
医師がこのような保身的態度を示すと、治療を受ける患者さんはこの医師に不信感を示すであろう。その理由は保身に走る医師の本音は自分の医療技術への自信のなさに他ならないから。患者さんが手術のような一大決心をするとき、患者さんは医師に全信頼を寄せている。その際、手術を行う医師は我先に自分を守ろうとするのではなく、行うべく手術に対して医師自身の人生をかけて行うくらいの決意が必要となる。そんな覚悟で毎回手術を行えば集中力がとぎれず、決して失敗することはない。名医は医療への情熱を失わない、ハートの熱い医師たちから生まれる。そして、その情熱は深い人間愛に基づいていてこそ本物の名医となれるに違いない。

2007年12月10日月曜日

名医の条件-1(“ゴットハンド”)


外科医は職人

最近テレビ等で名医特集が人気らしい。名医とは難病を次々と治す優れた能力を有する医師たちである。その中で名外科医たちが行うのは卓越した技を用いた手術となるが、その技を持った外科医を巷では“ゴットハンド(神の手)”と呼ぶらしい。先日出席した韓国美容外科学会で、韓国を代表する若手医師に僕は次のように尋ねた。「韓国で一番優秀な医学部はソウル大学と聞いています。ソウル大学医学部は競争率が高く、入学するのがとても難しいと聞いています。ソウル大学医学部卒業の優秀な先生たちは、この学会に出席していますか?」その韓国人医師は次のように答えた。「いいえ。ソウル大学医学部卒の医師たちはほとんど出席しておりません。彼らは外科医になるには頭が良すぎますから。」と笑いながら答えた。この韓国人医師は半分冗談のつもりで答えたのだろう。しかし、この韓国人医師のコメントは必ずしも冗談と言い切れない。僕がこれまで見てきた名外科医全てが頭脳明晰ではなかった。頭が良すぎる考え過ぎる癖がついていたとすると、手術を円滑に行うことができないことがある。また、常に頭を使う習慣のある、いわゆる“頭の良い人”は意外にも手先があまり器用でなかったりする。むしろ物造り職人のように、頭より手先を常に使って、同じ事を繰り返すことの出来る人のほうが、手先が器用であることが多い。外科医が良い手術を行うには職人同様、“技術やカン”を体得していなければならない。この“技術やカン”医学書には書いていないし、たとえ医学書に載っていたとしても読んだから習得出来るような代物でもない。ではどのようにして手術の“技術やカン”を身につけることが出来るのだろうか?それは物作り職人のように、日頃から手先を用いて繰り返し行う操作から身につける以外に方法はない。手術を上手にこなす外科医も、まさに物作りの職人と同様な能力が必要とされるのだ。

“ゴットハンド”に必要な条件

では名外科医、つまり“ゴットハンド”となるにはどのような条件が必要なのだろうか?“ゴッドハンド”は次のような条件を兼ね備えた外科医が、日頃から鍛錬と努力を繰り返した結果、生まれるのだと思う。

1. 手先が器用である。
手術を上手にこなすには手先が器用でなければいけない。これは持って生まれた才能なので、外科医になるには向き不向きがある。例えば、静止時に手が震えるようであれば、外科医になるのは不可能である。

2. 物事を単純明快に行う能力がある。
手術は簡単で素早く終わる方が、複雑で時間のかかる場合より明らかに結果が良い。人によっては物事を考えすぎて、なかなか先に進まないことがある。

3. 良いオーラを持っている。
手術を受ける側に“この先生であれば信頼できる。”と思わせる自信や雰囲気があることが大切となる。手術は自分の体を任せるので、全信頼をゆだねられなければ、患者さんは不安で手術に踏み切ることができない。

4. 楽観的である。
手術はたとえ完璧に行ったとしても、結果は個人個人で異なる。どんなに良い手術を行っても、患者さんのとらえ方によって必ずしも満足するとは限らない。たとえそのような状況が訪れても、前向きに考えて次々に手術をこなしていくには楽観的な性格のほうがよい。

5. 強運である。
例えば、二人の外科医がいて同様な手術を行ったとする。一方の外科医は問題なく手術を終えたのに、もう一方の外科医が行った手術がこれといった理由がないにもかかわらず、うまくいかないことがある。その理由はその医師の持っている運気の違いとしか言いようがない。

6. 度胸と集中力がある。
手術を成功に導くには邪念を入れず、心を静寂にして集中できる能力が必須である。また、手術中は思いがけないことが起こることもあるが、どんな状況でも動揺せずに、治療を継続する度胸が必要である。

7. 健康維持のための自己管理能力がある。
外科医は百戦錬磨の手術次々にこなしてゆくために、並外れた体力と精神力が不可欠である。心身ともに万全であるためには日頃の健康管理を怠らないことが肝心である。

上記の“ゴッドハンド”のための条件を振り返ると、これらの条件はプロスポーツ選手に必要な条件とほぼ同様と言って良い。スポーツを行うとき、頭を使っている暇はなく、ほとんど反射神経レベルで行う。手術も同様、頭を使うより反射神経レベルで行うほうがうまくいく。つまり、有能な外科医になるためには、あまり頭が良すぎず、考えるよりもまず行動できるほうが向いている。そういった意味で学生時代、スポーツばかりやっていて学業不振だった僕が、外科医を目指したのは正解だったような気がする。