2008年1月3日木曜日

スキーインストラクター


体が重たい朝

蒲団の間から冷たい空気が流れ込み、“ずいぶん寒いな”と感じて目を覚ました。“いったい、今何時頃だろう?”と、眠たい目をこすりながら窓のほうを見た。カーテンの隙間から朝の光が漏れていた。“いけない!また寝坊をしてしまったのだろうか?”僕は慌てて時計を見ると時刻は午前7時半、“まだ間に合う”とほっとした。昭和60年頃(今から約20年ほど前)の冬、僕は北海道のあるスキー場でスキーインストラクターとして働いていた。蒲団から起き上ろうとしたが、筋肉疲労でかちかちになった体が痛くて思うように起き上がれない。この冬はすでに連続15日間、寒さと闘いながらスキーに取り組んでいた。目覚めとともに空腹感が襲う。“何か食べ物はないか?”、昨晩実家から持ってきた正月用おせち料理を枕元に置きっぱなしにしたことを思い出した。暖房のついていない部屋の温度は10度以下、冷蔵庫と大差がない。冷えたおせち料理を寝ながらほおばった。“スキーインストラクター”、その響きは随分かっこよく聞こえるが、やっていることは肉体労働そのものであった。スキーを滑っている以外の時間、僕はまるで動物のように寝ているか何かを食べるかのどちらかしかなかった。お腹に食べ物を入れて、ようやくはっきりと目が覚めた。重たい体を蒲団から引きずり出して洋服を着た。カーテンを開けると、外には雪が降りしきっている。“なんだよ、今日も雪か”、僕は思わずぼやいた。毎日雪の上に長い間いると、正直雪を見るのにうんざりした。車のエンジンを始動させた後、前夜から降り積もった車の上の雪を払うが、車窓にこびりついた氷は簡単には落ちない。スクレイパーと呼ばれる道具でがりがりと氷を削り落した。手袋をはめ忘れた両手は冷えきり、痛みを感じるほどだった。時刻はすでに午前8時まわった。急いで出発しなければ午前9時の集合時間にまた遅刻する。その頃の僕はだらけた医学生生活をしていたせいか、時間にルーズで遅刻の常習犯だった。スキー学校の校長から「時間厳守は社会人の常識、君は責任感がない。」といつも怒られっぱなしだ。“今度遅れるとまずい”、僕はスキー場への道を急いだ。車のスピードを上げると降りしきる雪の勢いが増し、車のワイパーを最速にしても前がよく見えない。雪の降りしきる雲の厚い日は、朝でも夕方のように暗く気分も重くなる。車のカセットテープから流れるテンポの良い洋楽がこんな憂鬱な朝のせめてもの救いであった。

スキーレッスン

真冬のスキーインストラクターの仕事は想像以上に過酷だった。朝9時に集合し、30分のミーティング後、午前中のレッスンが始まるまでの一時間、コース点検と自主トレの時間だ。そのころの僕はモーグル競技の選手だったから、少しでも上達しようと一生懸命だった。午前中のスキーレッスンで、僕は全くのスキー初心者にスキーを教えることを出来なかった。それは僕がスキーを3歳頃、歩くと同時に始めたので、“どうやって歩くか?”を人に理論的に教えられないのと同様、“どうやってスキーを滑るか?”その理論を知らなかった。それゆえ、僕のスキーインストラクターとしての仕事対象は、元気盛りの小学校高学年~中学生男子生徒が主だった。午前中のレッスン開始とともにすぐさま彼らを急斜面へと連れていった。僕は彼らに向かって大きな声で「いーかい、次はこの急斜面をノンストップでついておいで。」といった直後、真っ先に滑り降りる。総勢10名近くの少年スキーヤーたちは遅れまいと必死で後を追うが、少年たちにとって大学生の僕についてくるのは容易ではなかった。レッスンが終わりには冬だというのに皆汗をかきながら真っ赤な顔をして、はーはー、ぜいぜい言っていた。昼休みは大勢のインストラクターたちと昼食を共にするが、僕たち大学生からなるパートタイムインストラクターは、スキーを本職とするプロインストラクターたちとは一線を画していた。彼らに僕たち大学生のような甘えは許されない。スキーインストラクターも人気商売、お客さんから指名を取ると給料がアップする。極めて競争が厳しい世界にいるせいか、プロインストラクターたちはみなどこかピリピリしていて、うかつに話しかけることも出来なかった。僕は一冬スキー漬けでいると、“プロスキーインストラクターとして生きてゆくのも悪くないかな?”という気持ちになった。しかし、彼らの現実の姿を垣間見た結果、「スキーを仕事にして飯を食ってゆくのは思った以上に大変そう。医学部の勉強も大変だけれど、自分はとにかく医師になろう。」と考えた。午後から同様のスキーレッスンを行うが、ようやく天気が回復してきた。ひとたび太陽が照ると、雪に反射した光がまぶしくて目が開けられないほどだ。ゲレンデに戻ると元気いっぱいの少年たちが「先生、早く行こうよ!」と待ちかねている。少年たちより10歳ほど年上の大学生であった僕は、彼らにとって格好のお兄さん役だった。午後は彼らを森の中に連れて行くことにした。森の中は木々と雪に囲まれ、静寂で神秘的な感じさえする。森の深雪斜面を少年たちは僕に必死になってついてくる。僕は後ろにいる少年たちが、みなしっかりついてきているか時折振り返えりながら確認した。そうこうしているうちに少年の1人が、大きな声を上げながら転倒した。雪まみれになった少年を見ながら皆大笑いをした。僕は少年たちにスキー技術は何一つ教えなかったが、スキーの楽しさだけは十分に教えた。実際、彼らはそのほうがこと細かく技術的な面を教えるよりもずっと早く上達していった。

サムライスキーヤー

午後3時にスキーレッスンを終えるころ、冬の北海道の日没は早いため、辺りはすでに薄暗くなり始めていた。これから午後4時過ぎまでの一時間はスキーインストラクターたちの特訓の時間となり、今度は僕が生徒としてしごかれる。プロスキーインストラクターたちの中にはオリンピックやワールドカップに出場予定のつわもの、“サムライスキーヤーたち”がいる。スキーの腕を上げるには、こうしたスキーの達人たちにくっついていくのが一番早道だった。リフトを降りてしばらく続く緩斜面を、インストラクターの一団は、まるで海の中を自由自在に泳ぐイルカのように滑り下りて行く。ウォーミングアップが終わる頃、僕たちの目の前に急斜面が立ちはだかった。ここは西暦1974年、札幌オリンピックが開催された時の女子大回転コースだ。この斜面に30人近いスキーインストラクターの集団が集まると、あたりは一種独特の雰囲気に包まれた。周囲のスキーヤーは滑るのを止め、われわれインストラクターにコースを譲る。コブだらけの急斜面をいかに直線的に滑り降りるかが今日の課題だ。僕たち下端インストラクターたちは威圧感あふれる“サムライスキーヤーたち”のお手並みを拝見する。間もなく彼らは一人ずつ順番に、もの凄い勢いでコブだらけの急斜面を滑り降り始めた。そのスピードと技術に圧倒されて、僕たち下端インストラクターや、辺りのスキーヤーたちはみな絶句した。ここは完全なる実力社会、自分のスキー技術に自信がなければ彼らの直後に滑ることは出来ない。何故なら途中で転んだりすると、みんなの前で大恥をかくことになる。誰が次に滑るか、皆周りの出方を待っている。当時モーグル競技出場を前の猛特訓で実力をつけていた僕は、思い切って滑り出すことにした。目の前には大きなコブが次々と迫ってくる。雪しぶきが顔に当たり、前が一瞬見えなくなる。あとは感に頼りながら、リズムを失わないようにして一気に滑りきった。滑り終わるとあまりの緊張感から解放されたせいか、体が震えそうになる。僕の後から次々にインストラクターたちが滑り降りてくる。その中には雪煙をあげて転倒する者もいた。プロインストラクターたちはただ無言でそんな僕たちの滑りをじっと見ている。転ばないで最後まで勢いよく滑り降りた僕は、その時プロインストラクターに仲間入り出来たと感じた。

20年ぶりの急斜面

こうして、毎冬僕はスキーに情熱を注ぎ過ごしながら5シーズンを過ごした。1冬70日、大学生活の5年間で350日真剣にスキーを滑ったことになる。残念ながら僕はモーグル競技全国大会で、入賞することは出来なかった。スポーツは才能の上に努力をし、さらに運が味方して初めて成功者となれる。正直言って、僕にそこまでスキーの才能はなかった。才能のある同僚や、頭角を現した高校生の教え子たちはこの全国大会に入賞し、後年オリンピック出場を成し遂げるまで成長した。僕は大学を卒業すると同時に真剣にスキーを滑るのをやめた。一生分スキーを滑ったからもういいと思った。今年、約20年ぶりに僕が青春をかけた山に戻ってみた。多くがあまり変わっていないせいか、過去の記憶が昨日のことのように蘇る。変わったのは20年前ほど多くのスキーヤーがおらず、その代わりスノーボーダーたちで賑わっている。それでもスキー全盛期の20年前と異なり、スキーリフトには待ち時間なしで乗れる。スキー場にはスキーインストラクターたちらしき姿も見られ、その中にはなんと20年前一緒に働いていたインストラクターがまだいるではないか!僕はいつも練習していた斜面に向かうリフトを降りた後、例の緩い斜面をゆっくりと滑り終え、急斜面の前に立った。朝早いせいか辺りには誰もいなかった。急に胸に鼓動の高鳴りを感じ始めた。僕はこの急斜面を20年前と同じ気持ちで滑り始めた。

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