2007年3月29日木曜日

忍耐要する経験


帰国にむけて
アメリカ・ソルトレークシティの標高は000メートル以上なので、2月下旬は真冬そのものの気候だ。一週間滞在したソルトレークシティで開かれた学会を終え、サンフランシスコに向かって発つ飛行便は朝の6時だった。空港まではタクシーで40分、僕は早朝3時半にタクシーを予約した。夜の10時過ぎ就寝につく前、テレビで明日の天気予報を確認した。予報では明け方にかけて雪が降るという。いやな予感がした。「今日までは天気がずっと良かったのに。。よりによって帰りがけに雪が降り始めるんだよ!」と僕はぼやいた。帰国に向けて体調を整えなければと少しでも眠ることにした。目を閉じてみたものの、天気が気になってなかなか寝付けない。窓から空を見ても真夜中12時んは雪は全く降っていなかった。「本当にこれから雪が降るのかな?」と思いつつ、いつのまにか眠りに落ちていた。気がつくと目覚まし時計のアラームがけたたましく鳴った。アメリカの目覚まし時計は嫌気がさすほどうるさい。「何もこんなでかい音を出さなくたっていいのに!」とむっとなった。アメリカと日本の微妙な感覚の差がここにある。日本であんなにうるさい音を出す目覚まし時計は誰も欲しがらないだろう。

雪の降りしきるソルトレークシティ
早朝3時過ぎになり、眠たい目をこすりながら準備をしていると、まだ真っ暗な夜空から雪がちらつき始めていた。3時半にタクシーが迎えに来た頃になると、雪の勢いはどんどん強くなった。「頼むからこれ以上降らないでくれよ。」と僕は祈るような気持ちでタクシーに乗った。道路はあっという間に真っ白になり、あたりを走る車は一台もない。パキスタン移民の運転手も突然降り始めた雪に当惑している様子。僕は運転手に「こんな雪が降っているけれど、飛行機飛びますかね?」と尋ねると、運転手は「こんな雪はソルトレークシティではよくあること。まあ心配ないと思いますよ。ところで、どこに行くんですか?」と聞き返した。僕は「これから、東京に帰るんです。」と返事をすると、「日本はいいところですね。私も行ったことがあります。」と返した。雪はどんどん強くなり、前は吹雪模様で何も見えない。タクシーはのろのろ運転を始めた。僕の不安は一層強くなった。
しかし、高速道路までたどり着くと路面に雪はなく、これで空港までは着けると確信した。この運転手は家族とともに7年前から米国に住んでいるが、移民としてのアメリカの生活は厳しいらしい。彼は「アメリカの生活は好きではない。将来、ここで蓄えたお金でパキスタンに戻るのが夢なんだ。」と言ったあと、別れを告げた。

早朝の空港
空港は朝5時前だというのにすでに多くの旅行客で混雑していた。飛行機は予定通り、チェックインがすでに始まっていた。「これで何とかなる。」と安堵した。サンフランシスコに飛ぶこの便には多くの客が乗り込み、満席だった。出発時刻は朝6時過ぎ、飛行時間は2時間なので、時差1時間のサンフランシスコ到着予定時刻は朝の7時過ぎだった。サンフランシスコ発、成田行きの便は午前10時半発、今ソルトレークシティ飛び立てば問題ない。飛行機は滑走路を離れだしたが、窓から見ると翼の上に早朝から降り積もった雪が厚く覆っている。
今から20年前の真冬、ワシントンD.C.の飛行場で飛行機がポトマック川に墜落した。多くの人が真冬の冷たい川に飲み込まれ犠牲となった。原因は翼の上に積もった雪が原因で、飛行機がバランスを失った。それからというもの、飛行機に付着した氷雪は解凍液ですべて溶かしてから離陸することが厳しく義務づけられた。僕の乗った飛行機の解凍作業がそろそろ始まろうとしている。フォークリフトに乗った作業員がホースからピンク色の解凍液を飛行機にかけ始めると、翼に積もった雪はみるみる溶け出した。離陸時刻はこの作業のため、すでに30分以上遅れていた。僕の乗った飛行機が朝一番のフライトなので、離陸を待つ飛行機は前にない。やや明るくなり始めた空からは雪は依然として降っているが、北海道育ちの僕はこの程度の雪に驚かない。僕の気持ちは帰国してからの多忙な診療に向けて切り替りつつあった。

離陸しない飛行機
離陸用の滑走路に飛行機が進入して、いよいよ飛行機のエンジンが大きくうなり始めた。「いよいよ飛び立つ。」と思ったと同時に「本当に大丈夫なのだろうか?」といやな予感がした。飛行機は離陸に向けてぐんぐん加速し始めたので、僕は「頼むぞ。」と祈りながら手に汗を握った。その途端だった。飛行機は突然加速をやめた。「何だよー!こんなことがあっていいのか?」僕の気持ちは憤りがこみ上げた。周りの乗客を見渡すと、意外にもみな平然としている。出発点に戻る飛行機の中で、機内放送に耳を澄ませると、機材に不具合が生じたと言う。日本では全くあり得ない話。もし、不具合があるのであれば、出発前にわかって当たり前で、何故一度飛び立つ寸前まで行った飛行機が突如離陸をあきらめるのだろうか?本当に機材に不具合があったとして、もし離陸してからそれが発覚したらどうなったのだろうか?僕はこの航空会社、パイロットに対する信頼感を失った。
しばらくするとパイロットの一人が客席のほうに出てきた。このパイロットは何やらこの飛行機のドアの閉まり具合をチェックし始めた。「えっっ、ドアの不具合なの?」僕は愕然とした。サンフランシスコからの成田便は一日一便、何としてもこの飛行機に飛んでほしい。しばらくすると、機長が「不具合が解決したので、もう一度離陸する。」と言う。漠然とした不安を感じながら「今度こそ、飛んでくれよ。」と祈った。
飛行機はエンジンを全開にし、どんどん加速していった。そろそろ離陸するだろうと思った瞬間、なんとまた飛行機は加速をやめてしまった。僕の気持ちは「こんな馬鹿馬鹿しいことってあるかよ!」と叫ぶ寸前だった。機長は機内放送で「このフライトはキャンセルになります。手荷物を持って出発カウンターにお戻りください。」と乗客に伝えた。

合理性を重視するアメリカの矛盾
乗客はほとんど米国人だったが、驚いたことにみな不平不満を言わず、無言で飛行機を降りてゆく。気がついてみると時計は8時を過ぎていた。失望のどん底に突き落とされたと言っても過言ではない。次の便のチェックインカウンターには長蛇の列がすでに出来ている。「まじかよー。。」と嫌気がさした。と言うのも、またチェックインに途方なく長時間待たされるに決まっていた。僕のすぐ前には日本人らしき男性がいたので、僕は「先ほどのキャンセルされた便に乗っていたのですか?」と尋ねてみた。その男性は「はい。アメリカではこのようなキャンセルは当たり前なんですよ。」と言った。彼は日本系米国人、商用でソルトレークシティから日本に向かっていた。僕は「もし、離陸してから不具合が発覚してたらと思うとぞっとします。」と彼に言うと、「あれは演技です。」と答えた。僕は驚きながら「えっ、演技ってどういうことですか?」と聞き返えした。彼は「私は機内で一番前にいたから、乗務員と今回のフライトについて話しをしていたんです。乗務員が言うには、”あの若いパイロットたちでは、この天気では離陸できないだろう。”と。」と言った。彼の話をまとめると次のようになる。早朝便はベテランパイロットはいやがるので、若手パイロットが操縦することが多いらしい。今回のように突然激しい雪が降ったりすると、慣れない若手パイロットには操縦することが出来ない。従って、一応飛ぶふりをしてみたものの、機材の不具合を理由に飛行をキャンセルしたとのこと。
まったく幼稚な話だが、これがアメリカの現実的一面と言える。さらにこの男性は「最近のアメリカは景気が良くなってきたので、飛行機を利用する客が増えてきています。そのため航空会社が高飛車になっているんです。出発便をキャンセルするなんて日常茶飯事、航空会社はキャンセル便を出す方が乗客を集約できて経営効率が良いとさえ思っているんです。」日本では決して許されない、企業側の都合によって顧客を犠牲にするやり方。このような出来事を通して、アメリカ社会の傲慢な一面を感じずにいられない。
サンフランシスコになんとかたどり着いたものの、その日の成田便に間に合わなかった。「こんな辛い経験も、自分に忍耐とは何かを教えてくれるための出来事。」と腹の虫をおさめる努力をした。サンフランシスコ空港近くに宿を見つけた時はすでに午後2時を廻っていた。明け方3時から12時間近く飛行場で右往左往していたことになる。帰国してからの診療開始日を万が一に備え一日余裕を持ち、この飛行機キャンセルの件で患者さんに迷惑をかけなかったことが唯一の救いだった。ホテルにチェックインした途端、翌朝8時まで15時間ほど長い眠りに落ちた。

2007年3月9日金曜日

プーケット


旅行の目的
日本から飛行機で6時間、今回はタイ最大の島、プーケットへと向かった。この島を訪れたのにはいくつかの理由があった。まず、バンコク病院・プーケット分院の視察、2番目にプーケットに別荘を持つ友人の訪問、そして2年前の津波で一命を失った英国出身の友人の弔いだった。プーケット島はタイの南端にある島で、きれいな海を求めてたくさんの観光客が訪れる。10年ほど前までは日本人観光客のブームになっていた。しかし、2年前のスマトラ沖大地震以後は日本人観光客がグンと減り、今は韓国やロシアからの観光客が増えている。半年前にリニューアルされたばっかりのバンコク国際空港に着陸すると、滑走路が凸凹しているせいか、飛行機が大きく縦に揺れる。友人の話ではタクシン政権の混乱の中に建築した新空港、構造上にさまざまな問題があるとのことだった。
バンコク病院・プーケット分院は、海外からこの島に住む欧米人が多いので、英語で用が足りる。美容外科も発達しており、ボトックスやヒアルロン酸などのプチ整形はもちろん、フェイスリフトのような手術も一般的に行われている。興味深かったのは、治療後に用いるハーブのスキンケア製品、タイならではの自然の恵みを利用した製品だ。これを用いると治療からの回復が早いという。美容医療はそれぞれの場所で、その地域の特性を生かした治療が行われているのが興味深い。そういったものが本当に良い物か知るには、実際に足を運んで自分の目で見るしかない。
英国人の友人はプーケット島北部のカオラックという場所で、スキューバ・ダイビングのインストラクターをしていた。彼とは東京で知り合ったのだが、25歳と若く、プーケット島での生活を謳歌していた。2年前の12月の朝、いつも通り彼はスキューバ・ダイビングの仕事でカオラックの浜辺にいた。突然、津波がこの浜辺を襲い、カオラックだけで700名もの命が奪われた。その中に僕の友人もいた。弔いのためにカオラックを訪れてみたが、今はまるで何事もなかったように復興されていた。亡くなった友人も、まさかこんなにきれいな浜辺で命を落とすことになるとは夢にも思わなかったに違いない。運命のいたずらとしか言いようがない。

仏教国のタイ
この時期プーケットはとてつもなく暑い。気温は30度を軽く上回っている。プーケットは赤道に近いせいで、日本の真夏である7~8月よりも4月頃が最も暑くなる。先週過ごした氷点下10度のソルトレークとは雲泥の差だが、ここまで暑いと冷房なしでは寝ることすら出来ない。プーケットに別荘所有する香港人の友人は、北京にある中国銀行を顧客とする巨大ファームの公認会計士。伸びゆく中国経済とともに、彼の懐も豊かになり、投資の意味も含めてこの豪邸を手に入れた。もしプール付き、4ベッドルームのこの家を日本や米国に構えたとしたら想像を絶する値段となるが、プーケットではその10分の1程度で買える。20メートルのスイミング・プールは夜でも生暖かく、これ以上の贅沢はない。”と夜のプールに身を浸しながら思った。
タイと言えば、エステ等のリラクゼーションが観光客に人気がある。米国人観光客の多いハワイなどと違って、プーケットはヨーロッパからの顧客が多く、ひっそりと過ごす感がある。早速僕も海が見渡せる丘の上にあるスパエステに行ってみた。エステは丘を覆う緑の中にあるヴィラ風の建物で、そこにいるだけで心地よい。スチームサウナで身体を暖めてから、スクラブや薬草のジェルを塗って、サランラップみたいなものに包まれたりしているうちに終了。あたりもいつの間にか真っ暗闇となっていた。帰りがけにサンダルに足を通そうとすると、黒い物が動いた。よく見るとハエよりは大きい。“もしや、ゴキブリか?”と思ってたじろいだ。僕を担当したタイ人の若いエステティシャンは、笑いながら「それはゴキブリではありません。」と言って、素手でつかむと窓から外に放った。タイは仏教国、むだに生き物を殺したりしない。短い滞在期間であったが、優しい国、タイでしばし心も身体も癒された。